穴門国は元々は武内宿禰の作った国であった | 日本の歴史と日本人のルーツ

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穴門国は武内宿禰を頭領とする海人族安曇氏が最初に開墾した土地であった(参考)。ここに斉系弥生人が入植してイツツヒコ王国(参考)となり、仲哀天皇と神功皇后が滞在して穴門豊浦宮と呼ばれ(参考)、ここから応神天皇、神功皇后そして武内宿禰が大和に帰還された。この頃から秦氏が大挙渡来し、穴門国を隋使、裴世清に秦王国と紹介した(参考)。

乙巳の変(645年)までは武内宿禰の子孫がまるで天皇のように振る舞ったが、以降は現天皇家の後ろに隠れる立場になり、長門一宮の住吉神社の武内宿禰は中央に鎮座しながら第三殿の立場に置かれることとなったと考えると腑に落ちる。忌宮神社では高良社に地主神として武内宿禰が祀られている。

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武内宿禰投珠図 裏面墨書から、元治元年(1864)11月長府藩主毛利元周室智鏡院による奉納


参考

① 蘇我氏の祖先、すなわち武内宿禰は応神天皇と一緒に穴門豊浦宮から出発した(参考):

額田(ヌカタ)氏は応神天皇の第一皇子が祖であった。すなわち、推古天皇(額田部皇女)や万葉歌人額田王は額田氏の血筋、または養育された可能性が大きい。また額田氏の居住した地域に額田や豊浦の地名が共に存在している。

また、日本書紀を鵜呑みにするなら、応神天皇の両親、すなわち仲哀天皇と神功皇后が滞在され、そして皇后が応神天皇をお腹に身篭られた地が穴門国の豊浦宮(トユラノミヤ)である。時代が下って、推古天皇(額田部皇女)が飛鳥の豊浦宮(トユラノミヤ)で政治を執られ、万葉歌人額田王が中大兄皇子(天智天皇)と穴門国で歌を作られた。すなわち、応神天皇、推古天皇、万葉歌人額田王は額田氏の縁者で、穴門国の豊浦宮の出身と言える(参考)。

また、乙巳の変(645年)で殺された蘇我入鹿の父の蘇我蝦夷が豊浦大臣(トユラのオオオミ)と呼ばれていたが、海人族安曇氏の末裔の蘇我氏のゆかりの地が豊浦(トユラ)と呼ばれているようだ。すなわち、蘇我氏の祖先、海人族安曇氏が建設した穴門国の豊浦(参考)から出発して、額田氏と組んで飛鳥の豊浦宮で政治を行ったと考えられる。

ついには乙巳の変(645年)で蘇我氏の日本中の財産が中大兄皇子(天智天皇)のもの(大化改新による公地公民)になり(参考)、白村江の戦いの敗戦(663年)後、穴門国の豊浦宮は長門国府として長府に移されたと推定する(参考)。


② 武内宿禰とその子孫たちは、玄界灘・響灘沿岸から出発して、大和に東遷した(参考)


③ 武内宿禰は長門一宮の住吉神社の本殿の五祭神の中央、すなわち第三殿に祀られ、忌宮神社では地主神となっている(参考)

忌宮神社に伝わる系図の写しを見せてもらったところ、亀山神社の神主家が武内宿禰の末裔で、忌宮神社の敷地を含む一帯の地主であったとのことであった。

江戸時代以前の長府の古地図では、忌宮神社の大宮司家の土地は竹内または武内となっていた。


④ 綾羅木川流域の弥生時代からの計画都市(参考)


⑤ 響灘から玄界灘の海人族は武内宿禰を祀った(参考)


⑥ 山口県は最も神功皇后を祀る神社が多い(参考)


⑦ 忌宮神社の境内摂社の八坂神社に合祀された塩竈神社の祭神の塩土老翁は武内宿禰と同一神(参考)