弥生時代の都市計画、下関市秋根、穴門国 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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弥生時代は中国大陸からの難民が個別にやって来て、原始的な稲作をしたと考えられているが、間違っています。組織的な都市計画を持っていました。

ここでは、弥生時代の東鯷国(中国の漢代の呼び名)の首都、すなわちイツツヒコ王国でもある下関市伊倉、綾羅木、秋根あたりを総括する。

結論を先に言えば、古墳時代での国内での呼び名は穴門国または穴門国の豊浦宮であろう。

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1 秋根地区(弥生時代からの地割に従った住宅地)
2 延行条里遺跡(弥生時代からの水田)
3 伊倉遺跡(縄文時代からの住宅地)
4 綾羅木郷、延行、有冨、稗田地蔵堂(墓)
5 綾羅木郷遺跡(弥生時代の食料倉庫)
6 住吉神社

水田や住宅地は初期設定されると固定され、戦乱や気候変動、政治などで放棄・破壊されない限り、地政学的に重要な都市はそのまま存続します。特に水田と農家は強固に結合して移動しません。ここでは、弥生時代には存在したと思われる地域で重要な考古資料が出土した所を大まかに囲んで並べてみた。

1 秋根地区には現在も住宅地が存在するが、条里制都市で、一角には弥生時代からの官衙的な遺跡も見つかっている(参考)。東端に住吉神社の初代宮司と云われる若宮神社跡がある(参考)。

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秋根地区、新幹線新下関駅開発で西の条里制地割の水田と東の住宅地が離れているが、新幹線開通までは隣接していた。

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水田の条里と秋根地区の条里がほぼ対応する。2000年以上前の条里制が現代都市の地割にまで保存されている。考古遺跡として都市計画そのものが重要であることが示唆される。

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現在の小字の地名、方形の地割になっている

2 延行条里遺跡、弥生時代の大規模水田が今でも工作されている(参考)。

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3 伊倉遺跡、現役農家の住宅地、縄文時代からの土器破片や小規模な墓も含め生活遺跡が出てくる(参考)。

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4 綾羅木郷から延行あたりに、古墳群で巨大な前方後円墳などがある。南に飛んだ稗田地蔵堂遺跡から弥生時代の大王(天皇級)の石棺墓と漢鏡と蓋弓帽が出土した(参考)

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綾羅木の古墳群、郷から延行

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稗田地蔵堂遺跡(左下、蓋弓帽出土、参考)

5 有名な綾羅木郷遺跡、弥生時代の環壕付き食料倉庫(参考)。

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6 神功皇后伝説にまつわる住吉神社、時代が下った古墳時代になるが、1で指摘した若宮神社との関係がある(参考)。この住吉神社の役割について、主要の三大住吉神社は港を守る神様を祀り、西の福岡市の住吉神社は古の倭の奴国を、東の大阪湾口の住吉大社は大和を、当の住吉神社は本州西端の東鯷国、古墳時代以降の穴門国の港を守っていることになる。住吉の神は港の守り役、すなわち津守の役割を持つ海人族住吉氏であり、安曇氏の支族であると見ても間違は無く、ここで言う港は綾羅木川を遡ったところで濁池であろう。

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総括

斉系弥生人が支配者の国で、農民として斉系や呉系弥生人や縄文人を入植させている王国である。特にこの都市は邪馬臺の前身の東鯷国の首都であろう(参考)。魚介類などの蛋白源や塩は安岡、吉見(日本最古の塩田跡、参考)、吉母あたりの漁村と提携したと考えられる(参考)。開発者は海人族安曇氏を想定している (参考)。

下関市の中央部、綾羅木から北東の菊川町が同様な計画都市であった(参考)。綾羅木と同様、他地域では稀な東西南北に正確な条里制である。豊田町も綺麗な条里制地割の水田が見られる(参考)。

これまでの論証を証明するかのように、高槻式土器や六連式土器の出土分布が、当該地域が大きな消費地であることを示している。また、長府あたりから出土していないことが重要です。


課題

考古学は出土した破片を分類するミクロ科学であった。都市・土地全体を分類・分析するマクロ考古学が必要です。現代の都市や土地に古代情報が眠っており、宝の山です。

また、都市計画や土地利用計画の観点から、住民の民族生活が伺える。すなわち、協調性のある民族なら完成出来る条里制や条坊制の地割も、一人でも反対者が出てくる可能性がある自己主張民族では条里制や条坊制の地割は完成しない。都市計画や土地利用計画を見れば民族性が判明し、分類することで新しい知見が得られると思われる。


参考















⑧ 高槻式土器、六連式土器

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高槻式土器(○印)と六連式土器(●印)の分布[「関門を結ぶ古代の土器」第9回日本海峡フォーラム実行委員会作成『海峡の考占学』所収]

弥生時代前期後半(前二世紀)の高槻式土器と奈良時代(八世紀)の六連式土器(焼塩壼)の分布を示したものである。前者の分布は紫川流域(現=北九州市小倉区)からまず綾羅木川流域に伝わり、あるいは小瀬戸をへて木屋川下流(現=下関市吉田)へ伝播したことを推測させる。綾羅木川の河口は、航海者にとっては小瀬戸の潮待港でもあった。後者は当時の塩の道が大瀬戸を迂回するのではなく陸路周防灘側へ搬送されたことを示す。
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/1999/00240/contents/052.htmより
(参考)


⑨ 対馬は海人族安曇氏の本拠地だった(参考)。


10 秋根遺跡の発掘報告書(参考)


11 穴門国の名前の由来の再考(参考)


12 秋根は国生み神話の本州の省略(参考)


13 稗田地蔵堂遺跡、イツツヒコ王の墓所(参考)


14 昭和43年当時の全景と、伊倉辺りの今昔(参考)


15 ゆかりの地を散策(参考)


16 最新の研究成果(2016.1.18、住吉大神も山田邑から住吉神社に遷座させられた、参考)


17 長府は土砂崩れの恐れが大きかったが(参考)、秋根あたりは自然災害の観点で安全な居住域であった。


18 穴戸の由来は朝鮮半島の安那との窓口だから(参考)

最近(2016.2.27)の考察では、旧国名は穴門国とか穴戸国と記され混用しているが、穴戸国が正しいと考えるようになった。しかし、後の長門国については長戸より長門の方がポピュラーであろう。


19 綾羅木川河口あたりに穴戸館(あなとのムロツミ)があった(参考)


雑談

東方に一山越えたら長府がある。この長府は長門国府になる。常々、何故こんな狭い交通に不便な場所にあるのか?理解できずに悩んでいた。流れの速い関門海峡は当時は使われていないはずである。まあ、逢坂と言う峠道で住吉神社経由の道があることはある。また、現代でも使われている長安線と言う陸路もある(参考)。

忌宮神社の言い伝えに、朝鮮半島から塵輪が攻めて来たとか!これが原因であろうか?それまでは秋根に首都があった。それとも、白村江の戦いの敗戦(663年)の対応で隠れたのか?だから秋根から官衙的な遺跡が出土したのである。すなわち、穴門の豊浦宮とは秋根地区であり、穴門とは綾羅木川の可能性が浮かび上がる。ちなみに、ツヌガアラシトが関門海峡を通らずに穴門のイツツヒコに面会していた!

注: 日本書紀に穴門のイツツヒコがでてくるが、あるURLをそのままコピペすると: 都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)、歴史に登場する最初の帰化人は、日本書紀、垂仁天皇二年、ツヌガアラシトです。時代について真剣に考慮する必要はありません。古代からの伝承を、「紀」の編纂時、適宜組み込んだだけで、ただ、早い、遅いという順序のみはあてにできます。これは神功皇后を卑弥呼と扱ったことから帰結するもので、それを遡る時代に置かれているのは、卑弥呼以前の、より古い時代の出来事ということになります。《天皇即位順/崇神―垂仁―景行―成務―仲哀(神功皇后)―応神》「一に云う。崇神天皇の世に、額に角がある人が一隻の船に乗って、越の国の笥飯(けい)浦に泊まった。それで、その土地を角鹿というのである。どこの国の人かと尋ねると、意富加羅国の王子、都怒我阿羅斯等と答えた。またの名は于斯岐阿利叱智干岐(ウシキアリシチカンキ)という。日本に聖皇がいるという噂を聞き、帰化しようと、穴門(*)に到った時、その国に伊都々比古(イツツヒコ)という人がいて、我はこの国の王だと言ったが、その人となりを見て、王ではないと思い引き返した。道を知らなかったため、島浦を伝って北海(山口県北部の海)より之(穴門)を廻り、出雲国を経てここに到ったのだと語った。…」*/山口県西部の響灘に面したどこか

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綾羅木川(中央)の河口が穴門


「隋書 卷八十一 列傳第四十六 東夷 ダイ國」によれば、ダイ王多利思北孤は大業3年(607年)に第2回遣隋使を派遣した。煬帝はその国書に立腹したが、翌大業2年(608年)、文林郎である裴世清をその答礼使として派遣した。隋使・裴世清に案内役が語ったところによると、竹斯を出て東に秦王国があると説明していた(参考)。

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関門海峡に入る直前に穴門が丸見えであった

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神功皇后は小倉から北方向①を見て穴門は近しと言われた(参考)