葛城氏と蘇我氏が真の主役だった | 日本の歴史と日本人のルーツ

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葛城氏は、武烈天皇までの応神天皇の子孫の天皇達の外戚として力を振るった(参考)。天皇らは大阪の河内平野を開拓し、都をつくり、陵墓を建設したので河内王朝とも呼ばれている。しかし、葛城氏自体は大和盆地の西側、葛城地域を根拠地としている。


武烈天皇の跡を継ぐ継体天皇以降、孝徳天皇以前も大和盆地には陵墓を建設しなかったが、外戚として力を振るった蘇我氏は大和盆地の明日香地域を根拠地とし、力を振るい、自身の墓も同地に建設した(参考)。


葛城氏と蘇我氏は武内宿禰を祖とする同族(参考)で、葛城氏の後を蘇我氏が継いだが、大和盆地の西部(葛城地域)から南部(明日香地域)を継続して根拠地としていたことになる。すなわち、天皇家は河内平野を転々として、蘇我蝦夷、入鹿親子を殺した乙巳の変(645年)以降にやっと大和盆地に入ることが出来た。


応神天皇と神功皇后の大和帰還も海人族安曇氏の東征神話(参考)であり、海人族安曇氏(武内宿禰)の末裔である葛城氏と蘇我氏が真の主役で、真っ先に大和盆地に定住し、現天皇家の祖先は河内平野から大和盆地に入れなかったと考えると腑に落ちる。


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大和盆地、西部に葛城地域、南東部に明日香地域


追加

大和盆地東部の纒向から柳本あたり、そして大和盆地北部(奈良市北部)の古墳群の主人達、すなわち応神天皇以前の天皇達の妻達も海人族安曇氏の女子であり(参考)、大和盆地は蘇我氏、葛城氏そして彼等の祖先の地域であった。


参考


① 古墳からみた古代豪族葛城氏(コピー元)


大阪府立近つ飛鳥博物館館長で、歴博名誉教授の白石太一郎先生のご指導の下で、5世紀前後、幾世代にも渡った大王家の外戚として知られている葛城氏を古墳考古学から再考し地域首長連合としての古代豪族を考える機会がありました。先生から教わった議論の要旨を以下にまとめておきます(内容その他、全て私の理解で、もし間違い等があっても、一切は私の責任です)。


1 大王家と葛城氏の関係と同祖系譜


葛城氏の始祖は、百済記にも記載あることもあり、実在の可能性が大きい「葛城襲津彦」と云われている。その娘の磐之媛が仁徳に嫁し、息子に葦田宿禰がいる(葦田は葛城の北部地域を指す)。そして襲津彦の孫に玉田宿禰がいる(玉田は葛城の南部地域を指す)。葦田宿禰の娘が履中に嫁し、その孫のはえ媛が雄略に殺されることになる市辺押羽皇子に嫁し、その息子が仁賢となる。大王の男子継承が確かになった頃に、継続して外戚としての位置を固めていたのが葛城氏だったと理解してよい。


実在は疑わしいが、孝元天皇の息子とされる建内宿禰系図(古事記による)には、波多八代宿禰、許勢小柄宿禰、蘇賀石河宿禰、平群都久宿禰、木角宿禰らと共に葛城長江曽都毘古が兄弟となっている。少なくとも、これは古代豪族は共通祖先を有するという思想があったことを如実に語っている。だから豪族同士、ある種の政治的同盟を結ぶことができた証しとも考えられる。


2 葛城氏の本拠地域


葛城氏の本拠とされる葛城地方は、先に述べた文献資料にある「葦田」や「玉田」を考慮し、馬見古墳群のある広瀬郡、葛下郡(葛城北部地域)、忍海郡や葛下郡(葛城南部地域で、室宮山古墳等がある)と考えられる。即ち奈良盆地の西方を占めている。大王を出した大和・柳下古墳群のある山辺郡、式下郡、式上郡、十市郡は奈良盆地の東方を占め、丁度対象の位置関係にある(中間の見瀬丸山古墳のある高市郡の高取川辺りが丁度境界となる)。


3 葛城地域のおける古墳の分布と編年からの考察


大型の前方後円墳が設営された古墳時代前期から中期にかけて、大王の墓は、おおまかに当初の柳下古墳群から離れ、河内地方の古市古墳群と和泉地方の百舌鳥古墳群を行き来し、後期に大和の五条野丸山古墳に戻ることになる。この3世紀中から6世紀の中で、摂津地方の三島野古墳群の太田茶臼山古墳は別として、今城塚古墳を継体稜と考えると、明らかに大王でない大型前方後円墳の造営は、馬見古墳群、即ち葛城地域に限られ、古墳時代前期中葉から中期にかけて継続している。


葛城地域に存在する200m前後の大型古墳を埴輪の編年に当てはめて、地域別にたどると次のようになっている。


埴輪1期:馬見南の新山古墳(唯一の前方後方墳)→
埴輪2期:馬見北の島の山古墳→馬見中の巣山古墳→馬見南の築山古墳(編年根拠が若干弱いものの)→
埴輪3期:室・国見山の室宮山古墳→馬見中の新木山古墳→
埴輪4期:馬見北の川合大塚山古墳→室・国見山の鑵子塚古墳→新庄の屋敷山古墳→
埴輪5期:馬見南の狐井城山古墳(古墳時代後期の古墳で奈良盆地内では4番目の大きさであることから大王墓の可能性が高い)


つまり葛城地域を転々として設営されており、同時期に同じ群内では連続することなく交替して造営されていることが明白である。


4 古墳考古学からの考察


葛城地域には、馬見北、馬見中、馬見南、新庄、室・国見山を本拠として、5つの有力な政治集団が存在した。それらが政治的連合を形作り、そのリーダの位置には交替して就いていた。即ち、葛城氏とは政治連合体であったと考えるのが自然である。先に述べた古代豪族間の同祖同族の意識がこれら政治集団の間にもあったと考えられる。


参考1)初期ヤマト王権


大王墓と見られている大型の前方後円墳のおおまかな編年を見ると次のような移動が見られる。箸中古墳群の箸墓古墳→大和古墳群の西殿塚古墳→鳥見山古墳群の外山茶臼山古墳→メスリ山古墳→柳下古墳群の行燈山古墳→渋谷向山古墳。


つまり4つの有力な政治集団が大王の位置に交替して就いていたと考えられる。それに続く時代の葛城氏が同様の仕組みで政治的連合を図っていたとしても不思議ではない。


参考2)室宮山古墳


本テーマを議論するにあたり、葛城地方の古墳の概要を個々に確認していったが、とても興味を抱かされるのが室宮山古墳である。90年に盗掘を受けており現状で分かっている特徴例を述べる。①後円部に竪穴式石室があり追葬されているようである。また前方部にも埋葬施設があったらしい。②石室天上石には播磨の石が使われており、③伽耶製の舟形陶質土器が出、朝鮮半島との繋がりが推測される。


この古墳は、もともと建内宿禰の墓(室大墓)との言い伝えがあり、応神天皇と同世代である葛城氏の始祖たる朝鮮半島とも繋がりがある葛城襲津彦の墓の可能性が大きい(建内宿禰が応神天皇の時代に帰化人を使って韓人池を造営した言い伝えもある)。


では石室に合葬された同格の埋葬者は誰だろうか。かつてのように聖俗合葬の可能性もあるが、5世紀には例がほとんどないとの由。白石先生は、磐之媛が追葬された可能性を示唆された。つまり当時、夫婦合葬の習慣は無いので仁徳稜には葬られないことから、郷の父の墓に合葬されたのではないかと考えられた。直接の証拠が出る訳ではなが、極めて自然な考え方と率直に受け入れられる。



② 筑紫君磐井、葛子親子は葛城氏と同族か?!(参考)



③ 現天皇家や藤原氏の末裔は蘇我氏の女系子孫(参考)



④ 現天皇のルーツである応神天皇の一族、秦氏は葛城氏と平群氏によって日本列島に渡来した(参考)



⑤ サモアの女系社会(参考)



⑥ 平群氏も天皇を凌ぐ勢力を持って瀬戸内海を航行したと思われる(参考)