概念:佐藤篤代/西暦2016年前半(6)
西暦2016年2月5日:金曜日

前半(6)
【『A・Course・in・Miracles』
特別性は真実を妨げる障壁】

①【A・Course・in・Miracles】原文序文引用―【A・Course・in・Miracles】で共著者名をカバーに載せない理由は、その中身よりも共著者達に焦点がいくことを防ぐためだ。知らなくてはならないのは中身。関わった人物に対する焦点は真実を知る上で障害になり無意味だからだ
②焦点は真実ではなく特別な個体故に、常に選び取るのは、たとえ間違っていようとも特別な個体となる。この状態下では真実は遠ざけられる。他に大切なものがあり、真実は求められていないからだ。だからエゴは「特別性」を最大の欺きの手段として最後の最後まで死守する
③アドラー派心理学のように、どれだけ権威と認められていようが、中身が首尾一貫しない支離滅裂な内容を平気で掲げてしまい、そんな空中楼閣だろうが、権威が提唱するから正当だと信じさせられる傾向。これが真実を妨げる特別性の誘引の障害なのだ

【①【A・Course・in・Miracles】原文序文引用―【A・Course・in・Miracles】で共著者名をカバーに載せない理由は、その中身よりも共著者達に焦点がいくことを防ぐためだ。知らなくてはならないのは中身。関わった人物に対する焦点は真実を知る上で障害になり無意味だからだ】

しばらくは去年西暦2015年の続きで「特別性」に関する概念記事を書いていく。この概念は徹底的に書き尽くし、どれほどエゴが「特別性」を死守し欺きの手段としているかをはっきりさせる。
今回西暦2016年前半概念(6)では
【A・Course・in・Miracles】原書
PREFACE『How It Came』全部
を提示していく。

全部かどうか忘れたが、この原文箇所は何度も引用している。それでも今回は全文『How It Came』を提示することにより、「特別性」という問題に対する慎重な取るべき姿勢を明らかにすべきだと思った。

【A・Course・in・Miracles】で共著者名をカバーに載せない理由は、その中身よりも共著者達に焦点がいくことを防ぐためだ。知らなくてはならないのは中身。関わった人物に対する焦点は真実を知る上で障害になり無意味だからだ。

【A・Course・in・Miracles】の唱導する内容と全く一致していなかった共著者ヘレンとウィリアム。彼らが言うことは歪みだということだ。彼らが共著者だからと言って特別視され持ち上げられていたら、歪みが更に酷くなるだけだった。実際持ち上げられたのだろうが。

真実より個体に焦点が向いた途端に、比重は真実よりも個体の魅力となる。
しかし個体とはエゴが作った幻想だ(仏教で言う意味に近い幻想)。個体に焦点が向かうということは、真実よりもエゴが作った欺きに焦点が向かうということだ。
それは真実よりエゴが作ったものを選ぶということ。エゴの欺きを選び取れば、エゴの術中に陥るので、全てはエゴの思うまま、必ず真実を覆い隠される。

個体の特別性の誘引に囚われれば、真実よりも個体が言う偽りを信じる。そしてエゴはこの状況を逃さない。特別性の誘引により焦点が集まった個体は、エゴの格好の道具でしかない。その個体はエゴの意図通りに、より特別性を強調され、惹き付ける為だけに言動し、そして真実を歪める為だけに言動する。
だからこそ、個体の特別性は真実を妨げる障害にしかならないのだ。

それ故に、真実を知る上で、特別性は完全に棄てられなくてはならない。

そして、エゴだけが、特別な魅力により真実よりも個体へ焦点が集まるように個体を作る。

だから他者から『神の教師』と認識される個体全ては、エゴの意図通りに作られた個体だということだ。
『神の教師』自体、特別性しか誘引しない。故にエゴ概念だ。

真実は特別な魅力ある個体からは発することができない。
何故なら、真実よりも個体に焦点が向けられてしまい、それ故に、真実は覆い隠されるからだ。
エゴの意図通り、特別な魅力の個体は歪みしか発信できない。

真実は、特別性が一切誘引されない方法で拡大され、知るようにされる。


【A・Course・in・Miracles】の「illusion(幻想)」とは、仏教で言う意味合いに近い意味。


「brother」、「the holy relationship」等の概念は特別性を死守するエゴの目的ゆえ、例外を作り出す為の算段でしかない。

故に、すべき全ては、徹底的に【例外なく】「特別性を否定し、棄てる」方向性を追究することだ。何も鵜呑みにしない。断定しない。常に歪みを受け入れさせられている可能性を考慮に入れ、とことん「特別性を否定し、棄てる」方向性を追究する。そうしなければ、必ず歪みを受け入れさせられている。

エゴがどれだけ徹底的に特別性を死守するのかを目の当たりにすれば、その必要性が理解できる。

実際は一切、徹底的に、例外はない。
エゴの魅力の魔法から完全に醒めれば理解できる。

実際は、「聖霊」として歪められた【終わらせる為に作用する何か】の作用により、エゴが作った全て、特別な関係をはじめ、知覚ある世界の全てが再利用されて、全て幻滅へと持っていかれる。
幻滅しなければ、棄てられないのだ。

特別な関係は幻滅の為に再利用されるということだ。

特に特別性は、幻滅がなければ絶対に棄てられない。

西暦2016年段階では本物:佐藤篤代は【A・Course・in・Miracles】自体を歪みだと見ている。神概念も癒しも歪みだ。聖なるキラキラもエゴのアメだと疑ってかかる必要がある。
「student」、「teacher」は矛盾であり、歪みでしかない。
故に『神の使者』も同様だし、日本語訳で更に歪んでいる。
それを踏まえた上で引用するのは、知る過程では欠かせないからだ。

また、原書にある「brother」は「あらゆる他者、個々の存在」、「the Father」は「神」を指すが、これは特別性を温存するための理由で書かれている場合がほとんどだ。
歪みだが【A・Course・in・Miracles】の「the Kingdom」や「Heaven」は「the Kingdom=Heaven=神=神の創造物=神と1つの状態」だ。
「I」等の一人称はJesus(イエス・キリスト)。
「Friend」は「聖霊」。
少なくとも「learn」は「知る」、「teach」は「知らせる」と意味を取らなくては歪みにハマり込む期間がそれだけ長くなる。
故に「teacher」は「知らせる者」、
「learner」は「知るべき者」。
しかも「知らせる(段階の)者」、
「知るべき(段階の)者」。

「idol」とは「偶像」であり、「偶像」とは「あらゆる個々の存在」を指す。


▽以下引用

【PREFACE】

This Preface was written in 1977, in response to many requests for a brief introduction to A Course in Miracles. The first two parts - How It Came;What It Is - Helen Schucman wrote herself; the final part - What It Says - was written by the process of inner dictation described in the Preface.

Preface
http://t.gree.jp/#blog_id=648647806&tab=blog_view_per_entry&user_id=52622697

【How It Came】

A Course in Miracles began with the sudden decision of two people to join in a common goal. Their names were Helen Schucman and William Thetford, Professors of Medical Psychology at Columbia University's College of Physicians and Surgeons in New York City. It does not matter who they were, except that the story shows that with God all things are possible. They were anything but spiritual. Their relationship with each other was difficult and often strained, and they were concerned with personal and professional acceptance and status. In general, they had considerable investment in the values of the world. Their lives were hardly in accord with anything that the Course advocates. Helen, the one who received the material, describes herself;

Psychologist, educator, conservative in theory and atheistic in belief, I was working in a prestigious and highly academic setting. And then something happened that triggered a chain of events I could never have predicted. The head of my department unexpectedly announced that he was tired of the angry and aggressive feelings our attitudes reflected, and concluded that "there must be another way." As if on cue, I agreed to help him find it. Apparently this Course is the other way.

Although their intention was serious, they had great difficulty in starting out on their joint venture. But they had given the Holy Spirit the "little willingness" that, as the Course itself was to emphasize again and again, is sufficient to enable Him to use any situation for His purposes and provide it with His power.
To continue Helen's first-person account:

Three startling months preceded the actual writing, during which time Bill suggested that I write down the highly symbolic dreams and descriptions of the strange images that were coming to me. Although I had grown more accustomed to the unexpected by that time, I was still very surprised when I wrote, "This is course in miracles." That was my introduction to the Voice. It made no sound, but seemed to be giving me a kind of rapid, inner dictation which I took down in a shorthand notebook. The writing was never automatic. It could be interrupted at any time and later picked up again. It made me very uncomfortable, but it never seriously occurred to me to stop. It seemed to be a special assignment I had somehow, somewhere agreed to complete. It represented a truly collaborative venture between Bill and myself, and much of its significance, I am sure, lies in that. I would take down what the Voice "said" and read it to him the next day, and he typed it from my dictation. I expect he had his special assignment, too. Without his encouragement and support I would never have been able to fulfill mine. The whole process took about seven years. The Text came first, then the Workbook for Students, and finally the Manual for Teachers. Only a few minor changes have been made. Chapter titles and subheadings have been inserted in the Text, and some of the more personal references that occurred at the beginning have been omitted. Otherwise the material is substantially unchanged.

The names of the collaborators in the recording of the Course do not appear on the cover because the Course can and should stand on its own. It is not intended to become the basis for another cult. Its only purpose is to provide a way in which some people will be able to find their own Internal Teacher.

How It Came
http://t.gree.jp/#blog_id=648830478&mode=add&tab=blog_view_per_entry&user_id=52622697

△以上引用

【A・Course・in・Miracles】
second edition:
PREFACE
How It Came



【② 焦点は真実ではなく特別な個体故に、常に選び取るのは、たとえ間違っていようとも特別な個体となる。この状態下では真実は遠ざけられる。他に大切なものがあり、真実は求められていないからだ。だからエゴは「特別性」を最大の欺きの手段として最後の最後まで死守する】

以下は、西暦2016年2月1日:月曜日
読売新聞一面の編集手帳より引用した内容だ。

「その寄宿学校で育った子供たちは、絵を描き、詩を詠み、やがて恋を覚える。巷(ちまた)の若者と変わらない彼らを過酷な運命が待つ。それは、彼らが臓器提供のために作られたクローン人間だからだ。
英国の作家、カズオ・イシグロが2005年に発表した小説『わたしを離さないで』は、限られた時間を懸命に生きる彼らの姿を描いた。運命に抗う生徒に元教師が、家族を病気から救いたい人のクローン利用は「もう止められない」と諭す場面が切ない。
小説はベストセラーとなり、映画化もされた。日本では翻訳ドラマが放送中だ。作品が今も色あせないのは、現実の世界でも、科学と倫理の相克が人の心を波立たせているためだろう。
政府が遺伝子操作の新技術「ゲノム編集」への規制を巡る議論を始めた。先天性疾患治療への活用が期待される一方、親の希望通りに遺伝情報を設計した「デザイナーベビー」の誕生などが懸念される。命の起源にどこまで踏み込むか。判断は難しい。
人は科学の発展に努めつつ、倫理に悖る行いのないよう自らを律する必要がある。軽々に「もう止められない」と言うべきではない。」
西暦2016年2月1日:月曜日
読売新聞一面編集手帳より引用
http://premium.yomiuri.co.jp/sp/#!/news_20160131-118-OYTPT50333/list_HENSHUTECHO

【わたしを離さないで】
西暦2016年1月~ドラマ
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%8F%E3%81%9F%E3%81%97%E3%82%92%E9%9B%A2%E3%81%95%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%A7
公式サイト
http://www.tbs.co.jp/never-let-me-go/

臓器提供の為の人間の育成どころか、クローン自体、西暦2016年の日本だけでなく世界中で禁止されている。だからこの『わたしを離さないで』の施設自体が犯罪となる。

しかし、法に反するので表立ってはできないが、水面下ではあり得ない話ではない。あらゆる分野の物語でも多々ありがちな話だ。

この物語で注目すべき点は、その寄宿学校の成り立ちだ。子供たちは何も知らない。だからこそ、自らすすんで臓器提供する方向へ思想を教師達が教育する。まさに洗脳するワケだ。
だからこそ、社会から隔離し隔絶した寄宿学校で育てる。
授業には『社会』がないのは、外の世界を知られないようにするため。自分達が外の人達と違うと知られないようにするため。外を知れば、その理不尽過ぎる自分史達の運命に反発が生じるからだ。

だからこそ、「学校の外には殺人鬼がいて、外に出たら殺される」と教師達がデマを流し、恐怖で縛り外に出る意欲を奪う。外は危険であり、中にいる限り安全だと行動を恐怖でコントロールするワケだ。

それでも、外から新しく来た教師に、外のことを教われば外に行きたくなる。それで脱出した子供たちは、発信器をつけられているのですぐに発見され、学校に戻るのではなく、子供用の臓器提供用として連れていかれてしまう。それで教師達が作り上げたデマで「行方不明」となった子供たちの所持品が血塗れで学校の門で発見される。勿論教師達が、噂の信憑性が増すように設置した。それで子供たちは脱出する気を失せる。外のことを教えた教師も、自分のせいで子供たちが命を縮めたのだと自分を責めて何も言えなくなる。

学校では絵の上手さは魂を表すと教えられ、絵が下手な子供たちは「駄目人間」として蔑まれ、いじめられる。絵の上手さが人の価値を決めると教えられるのだ。それ以外は意味がないと。サッカーの才能がある子供も、絵が下手なだけで蔑まれる。価値観が著しく偏りすぎたことを子供たちは教えられる。

外から来た教師は普通の社会から来たから「そんな価値観はおかしいし、間違っている」と判る。だから、サッカーの才能があるのも絵の才能があるのと同じ位に素晴らしいことだと子供たちに教えた。

しかし、子供たちはサッカー選手にはなれない。臓器提供の道具でしかないから、未来はないのだ。

だから、寄宿学校の教師たちは偏った価値観を教える。将来の夢を見られては反発が生じるからだ。反発が生じないように、価値観や思想をコントロールして教育する必要があったのだ。だから外のこと、事実を隠す。コントロールするために教師たちには不都合な「余計な情報」は徹底的に隠される。

そして、「特別」な「使命」がある「特別な人間」だと信じ込ませる。「あなたたちは大切な使命を持って生まれてきた天使なのです」と特別意識を持たせる。
そうしてアメと恐怖で呪縛する。

教師たちはそう持ち上げて「大切」で「特別」だと言いながら、その実、子供達を道具としてしか見ていない。だから外から来た教師に問題児が慕うのを見て「どうやって手懐けたんですか?」と聞く。子供達を家畜位にしか思っていないのに、偽善的に「良いこと」を説く教師たちにはヘドが出る。

この教師たちのやり口には、実際のこの世界の教員たちの実態が重なる。「良いこと」を教えながらやっていることは、倫理的に問題がある、規範意識の欠如だらけの不正と隠蔽まみれの組織構成。
詳しくは少し後で以下で示す。

子供達は外からの情報から隔離されているから教師たちが教える全てを鵜呑みにさせられる。教師たちが教えることが真実となる。それがどんなに間違っていようとも。内側にいたら何も事実も真実もわからなくさせられる。外から「それまで信じてきた真実」を否定する情報が入ってこない限り、疑いもしない状態にされてしまう。

これが個体を信頼する危険性だ。

真実を教える個体が間違って教えても、その個体が信頼され、特別ならば、必ず鵜呑みが生じ、その間違いを真実だと信じ込んでしまう。対象が子供でなくともいくらでもこの状態に陥る。
外からそれを否定する情報がやって来たとしても、その教える個体が特別であればあるほど、信頼されていればいる程、その否定に耳を塞ぐ。
特別な感情が邪魔をして、本当の真実よりも、特別な個体が言う間違った真実の方を真実だと選びとってしまう。

彼らにとって大切なのは本当の真実ではなく、どんなに間違っていようともその特別な個体だからだ。

焦点は真実ではなく特別な個体故に、常に選び取るのは、たとえ間違っていようとも特別な個体となる。
この状態下では真実は遠ざけられる。
他に大切なものがあり、真実は求められていないからだ。
薄々気づいていようが、真実よりも特別な個体を選んでしまう。
求める方向へ、焦点が向かう方へ、全ては向かっていく。

だからエゴは「特別性」を最大の欺きの手段として最後の最後まで死守する。

教師たちのやり口は、エゴのやり口と同じだ。アメと恐怖で呪縛する。

甘い甘い特別性でなだめすかして真実からそらし、恐怖で縛り付けて「不都合な真実」を知れないように制する。本当に「不都合な真実」を知る意欲さえも起こさせないようコントロールする。

甘い特別性で思考を鈍くさせ「余計なこと」を考えさせないようにする。まるで麻薬のように甘さで「不都合な」全てを覆い隠す。
そして、エゴは理不尽で残酷な事実を隠し尽くすために、世界は楽で素晴らしいと甘さと「よい面」だけを強調してアピールする。

アメとムチ(恐怖)―このエゴの常套手段で、エゴは「特別性」という最大の欺きの手段で、知覚ある世界に呪縛する。何の疑問も持たせないように、言い訳し、取り繕いながら。

西暦2016年2月2日:火曜日は北隣【近藤】(仮:50才前後公務員夫妻:役所系と小学校教師)がダブルでサボり。もはや公務員の組織ぐるみの規範意識の欠如を証明するサボり多発だ。普通は解雇。
その規範意識の欠如を証明するように夕方のニュースでは教師の不祥事の多さが特集で組まれていた。
不祥事は校長の所で揉み消され、教育委員会には報告されず、不祥事を起こした問題教師は普通に異動で厄介払いされてあちこちをたらい回しされるので、同じ不祥事を繰り返す教師がたくさん蔓延ると言っていた。教科書不正問題が生じるのは当然な病みきった組織だという証拠。隠蔽と不正まみれの組織世界。
だから北隣【近藤】(仮)はつきまとい行為を平然とする。サボりながら洗面所のタイミングを洗面所で待機したり後からやってきたりで狙う。久々に昨日、西暦2016年2月2日:火曜日は狙われた。洗面所に入る前に気づき避けたが。犯罪になるからトイレや風呂のタイミングをあからさまに狙うのをやめたかと思ったのに。
そう書いた途端に、翌日、西暦2016年2月3日:水曜日からからストーカー度が高まった。北隣【近藤】(仮)メルセデス黒ワゴン男の方があからさまに夜のトイレのタイミングを狙ってきた。しかもパートよりも早すぎる帰宅で。その翌日も時間が違うのに夜のトイレ後、部屋に入ってからのタイミングを狙ってきた。その前には洗面所も北隣【近藤】(仮)女小学校教師にタイミングを狙われたのに。赤いサイレンみたいなのが同時に見えたから【実母】に見に行かせ、自分は洗面所の用を避けたが。見に行った時には既に止んでいたらしい。あまりに連日連夜狙って来るから、避けられるものは避ける。だが、洗面所を避けたら台所タイミングで、間近にある北隣【近藤】(仮)のリビング南面雨戸閉めで激しくタイミングをあからさまに狙われたのだが。壮絶としか言いようがない狙いだ。しかもそれらのタイミング合わせは全て、パートよりも早すぎる帰宅でなければ不可能なのだ。夕方や夜は台所にいるのはほんの短時間数分程度なのだが、度々これはやられる。夕方から夜にその付近近接地に潜んでいるかのような音が度々聞こえるし、しかも駐車場人感センサーライトがこちらの動くタイミングを狙うかのごとくつく。その北隣【近藤】(仮)の物音に度々関連しながら。東の細道に入る人間は4件分の家の人間。滅多に人は歩かない。そんなに多々タイミングが合うわけがないのだ。
そのくらいに北隣【近藤】(仮:50才前後公務員夫妻:役所系と小学校教師)は凄絶レベルでタイミングを狙ってくるのだ。パートよりも早すぎる帰宅でなければ不可能なのに。
時々このように激化する。

【異世界】だから、教師の領域は規範意識の欠如が甚だしいが、あからさまにタイミングを狙うとつきまとい行為で犯罪になりかねないとわからない領域なのが北隣【近藤】(仮)で設定をやっている【異世界】の関連づけ。

西暦2016年2月1日:月曜日なんかメルセデスベンツが道中のお決まりのルートを長い間前を行くというつきまとい。栃木県宇都宮市のど田舎だというのにベランダにいる短時間でタイミングを合わせてくるあり得ないメルセデスベンツ。西暦2016年2月3日:水曜日なんか数分間で2台も通りゾッとした。栃木県宇都宮市に高級車が多発し過ぎる理由がなさすぎて怖いわ。
メルセデスベンツが異常多発する理由は北隣【近藤】(仮)がメルセデスベンツ黒ワゴンだから。そして医者系設定が激しいのだと最近気づいた。北隣【近藤】(仮)の息子は医学生。
あれほど医者系の間接的関連づけが『ブログが見えない異常者と化した異世界の住人達』でツッコミしたようになされていたら、北隣を医者系設定でやってるのだと思うよな。大々的にしつこく視界に入ってくる公的な近藤誠とかいう医者系もいるし、そういう【異世界】の金持ち、特に医者系の関連づけが日常的に執拗なのだ。
そして他者を踏み躙る【他者否定】型であり規範意識の欠如としか言いようがない位にかけ離れた常識、規範、普通の【異世界】の関連づけなので、それゆえに犯罪になりかねないレベルでストーカー化するのだ。

【A・Course・in・Miracles】主要概念『知覚ある世界の全てはエゴが作った幻想』という前提の話。仏教で言う意味に近い幻想。【異世界】とはエゴが作った別の領域の世界のこと。


教師という型が倫理と規範意識の欠如が深刻レベルにあれば、教えられる側には相当な悪影響がいく。
それが正当化される領域では、ドラマ『わたしを離さないで』のように、盲目にさせられ、間違いを真実だと信じ込ませられる。

個体への信頼は盲目さと鵜呑みを招き、確実に真実は見えなくさせられるという意味が少しは広まるだろうか。



【③アドラー派心理学のように、どれだけ権威と認められていようが、中身が首尾一貫しない支離滅裂な内容を平気で掲げてしまい、そんな空中楼閣だろうが、権威が提唱するから正当だと信じさせられる傾向。これが真実を妨げる特別性の誘引の障害なのだ】

スケープゴート用として、エゴは本当に漫画アニメやゲームを落としたいんだな、エゴが作った【異世界】の主人公。だが、漫画アニメ関係が来る時点で単にブログが見えてない証拠にしかならないから関連づけは成立しないよ。【異世界】決定なだけ。しかし、エゴが作った世界の初期から【異世界】で漫画アニメやゲームを落とし尽くし糾弾し尽くしスケープゴート用として利用し尽くして来たからこそ、最終的な概念を言わせる個体として漫画アニメやゲームを再利用させるのが最適で最善だという完全再利用法が判らないのは憐れだ。個体の特別性の誘引が不可能な、糾弾され尽くしてきたスケープゴート型個体に最終的な概念を提示させる。それにより、個体による特別性の誘引は終わる。特別性を終わらせ、棄てさせるには最善の方法というわけだ。
『どうすれば特別性を本当に終わらせられるのか』を考えたこともないからそんな簡単な論理がわからない。考えたら当然な論理。
スケープゴートとして落とされ蔑まれ尽くした型に、特別性の誘引度が高い個体型の領域よりも進みすぎた最終的な概念を提示させ、その特別性が紛い物でしかないと知らしめさせる。それにより特別な個体は立場がないどころの話ではなく、逆に概念提示だけで自ら堕ちることになる。だからエゴは特別な個体達で漏れた概念を採り入れざるを得なくなる。それで、次々に崩れながら概念を更に採り込まざるを得なくなりながら、個体の型も崩されていくために特別性の誘引も次第に弱まっていき、最後の個体へと達する。
エゴは要するに、特別な個体達で落とし尽くしてきたスケープゴート型ではなくては概念を使えなくなり、抹消させようとしたスケープゴート型を主人公として作らざるを得なくなる。特別性を死守するためには、スケープゴート型へと型を近づけて行かざるを得なくなるわけだ。
エゴとしては実に不毛なことを否応なしにやらされていく。
全ては【A・Course・in・Miracles】で聖霊と歪められた、エゴとは正反対の【終わらせる為に作用する何か】の作用の完全な終わらせる計画。
輝き持ち上げられた主人公達は、彼らが蔑み落とし尽くしたスケープゴート型により、その概念の稚拙さを提示され、特別性を維持できずに自ら落ちて崩壊していく。
落とせば落とされる。自分達がやったことを受け取らされているわけだ。


というような内容を『ブログが見えない異常者と化した異世界の住人達』にツッコミで書いた為だろう、スケープゴート糾弾を正当化させる為に、エゴがアドラー派心理学で取り繕いをしてきた。しかし、その取り繕いが『完全否定』の証拠と帰す結果となった。

『ブログが見えない異常者と化した異世界の住人達』一覧29→異常にも920越え
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12124150975.html

『ブログが見えない異常者と化した異世界の住人達』一覧30→異常にも940越え
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12124520628.html

『[但し書き]に「いいね」を付けたブログが見えない者一覧』に「いいね」を付けた異常者と化した異世界の住人達、リンク
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12115515187.html


西暦2016年2月3日:水曜日は節分。節目の日に決定的な事実が判明した。ここから心理学のアドラー派を完全否定する。アドラー派の正体を遂に掴んだということだ。

アドラー派は心理学概念におけるエゴの逃げ道の言い訳の場となっていて、どうにか言い訳できないように持っていけないかと常日頃思案していた。

しかしながら、エゴの逃げ道の言い訳の場となっていたことが、逆にアドラー派自滅の道へと誘っていたのだ。

アドラー派心理学は文字通り空中楼閣と化していたのだ。
土台のない所に建物を建てたどころか、空中に建ててしまうというあり得ない状態。空中楼閣は魔法でしか成立できない。故に、この知覚ある世界の物理の法則に触れた途端に、地に落ちる。
そんなあり得ない心理学がアドラー派だったということが判明したのだ。

まさに『いいとこ取り』。しかも様々な概念レベルのいいとこ取りをしてしまった為に支離滅裂な内容となった、全く首尾一貫しない『ちゃんぽん』心理学と言えるくらいにアドラー派心理学は滅茶苦茶だった。
エゴに都合がよい概念だけを様々な概念レベルから採り入れ、都合が悪い概念を否定している。
しかも、都合よく否定してしまったのが心理学の要石の原因レベル。トラウマや心の傷等を否定してしまった。それは『抑圧』概念自体の否定となるわけだからもはや支離滅裂。抑圧概念を否定したら心の法則はもはや成立できない。故にアドラー派心理学は心の法則を説明できず、採用できなくなったワケだ。

アドラー派心理学では心の法則が不可能となってしまった。
それはもはや心理学ではない。
心の法則を知る目的がなくなれば、もはや心理学ではなくなるし、それが心理学ならばやる意味はない。不要物だ。

心理学は心の法則を知る目的があるからこそ、概念進化過程として通るべき必須項目だった。それがないならやる必要はないどころか時間の無駄となる。故に、アドラー派心理学は不要だったワケだ。
だから、アドラー派心理学は詳細に取り組まなかったわけだ。時間の無駄だから。

元から本物:佐藤篤代はアドラー派心理学はおもて向き真新しい概念が見えなかったので詳しく取り組まなかったから詳細までは把握していなかった。

しかし、心理学段階でアドラー派心理学をやっていたら、支離滅裂過ぎて混乱させられていた筈だ。

西暦2016年現在では、あらゆる概念段階を把握している。だからこそ、アドラー派心理学の首尾一貫しない支離滅裂さがはっきりと見える。だが、心理学段階でやっていたら、その支離滅裂さはわからなかった。だからやらなかったのだ。

土台がない、段階を飛び越して、心理学段階で必須の原因レベルを否定した空中楼閣故に、アドラー派心理学は滅茶苦茶過ぎて混乱しか引き起こさない。下手に成功法則を『いいとこ取り』しても、心理学段階の基礎が否定されていたら、過程が繋がらないのだ。

概念進化の過程で繋がらず、どこかが欠けていたら【A・Course・in・Miracles】本道へはたどり着けず、理解できないだろう。

全ては真実を知る為に過程として必要な概念レベルの移行を順番に進化させるための道筋(コース)だ。

この真実を知るという全体の目的からの過程で心理学で知るべきは『心の法則』。『自然の法則』も成功法則段階への序章として熟知していく。過程で欠かせない理由。

どこかがその概念レベルで否定され、順番が滅茶苦茶だったら、混乱し、絶対に理解には至らない。道筋には必須項目があり、順番が守られなければ理解というゴールには到達できない。

アドラー派心理学はその真実を知る為の道筋には含まれなかったワケだ。『いいとこ取り』の首尾一貫しない支離滅裂概念だったからだ。
故にアドラー派心理学は不必要概念。
エゴの逃げ道の言い訳概念以上にはなれなかったのだ。

名前だけかっこよく作ったり、それっぽく見た目だけかっこよく見せりゃいいってもんじゃないんだよ。内容がバラバラで一貫性がない概念など、何の意味もない。それがアドラー派心理学の実態。

必要なのは一貫性のある内容。説明が途切れて無理のある言い訳にしかならない内容なんか無意味。

アドラー派心理学はSTAP細胞の小保方晴子に似ているとしみじみ思った。
まさに空中楼閣。
『STAP細胞はありませんでした』と、科学の土台がないから、必然的な結果を突きつけられた。
心理学の土台がないから、もはや心理学ではなくなってしまうのが、アドラー派心理学。

エゴが作った前々の【異世界】の領域は、都合よく『いいとこ取り』をするから土台や要石が欠けた状態で採り込んでしまう。だから、心理学と言っていても心理学ですらない状態、科学者なのに科学者ではあり得ない状態となる。

小保方晴子は、自殺した共著者に裏で「科学者には向いていない」と言われていたらしいが、「科学者としてはあり得ない」ということだったのだ。

エゴが前々に作った【異世界】の科学者は「科学者としてあり得ない」となり、アドラー派心理学は「心理学ではあり得ない」と帰すわけだ。
この領域とは何もかも全く違う【異世界】だからだ。それは同時に【異世界】では何でもありであり、魔法としか言いようがない無秩序状態だということだ。
だからこそ空中楼閣。

心の法則を否定したら、もはや心理学ではない。それが心理学なら心理学をやる意味自体がなくなる。
心理学には心理学レベルでの原因レベルがある。成功法則には成功法則の原因レベルがある。各概念レベルにはそれぞれの原因レベルがある。それはもう覆せない。知覚ある世界の内側の概念において、単にそれぞれの概念レベルの型には限界があるだけだ。
原因レベルが移行するには、概念レベルの型を移行しなければならないだけだ。心理学レベルで新たに原因レベルが発見されるということはあり得ない。
それこそインチキであり、そんなものは意味がないからだ。
不必要な支離滅裂概念と成り下がるだけ。

エゴとしては、スケープゴート糾弾を正当化させる為に、『抑圧』概念で欠かせないトラウマや心の傷の原因レベルを否定したかったのだろう。悪人に心の傷はないとさせたかったのだ。そして心の傷や抑圧のシチュエーションが自分にできない楽園領域の主人公には心理学が扱えなくなる。相手の立場、スケープゴートの立場で物事が考えられないし、考えたくない。だからアドラー派心理学で否定させた。
だが、『抑圧』自体が否定されては、心の法則を掲げられなくなるとはその領域段階ではエゴには解らなかったのだろう。

ということから推察するに、アドラー派心理学を心理学ではなくさせる決定的証拠となる元は、エゴが作った初期の【原始的レベル】の領域だと判る。スケープゴート糾弾が激しい領域だ。だから正当化したい。初期の概念レベルの稚拙さによる取り繕いがアドラー派心理学の完全否定の証拠を作り出した。まさに墓穴堀りだな。

エゴの逃げ道の言い訳でしかないアドラー派心理学はこれで完全否定できる。

アドラー派心理学のように、どれだけ権威と認められていようが、中身が首尾一貫しない支離滅裂な内容を平気で掲げてしまい、そんな空中楼閣だろうが、権威が提唱するから正当だと信じさせられる傾向。これが真実を妨げる特別性の誘引の障害なのだ。

佐藤篤代

概念:佐藤篤代/西暦2016年前半(6)
【A Course in Miracles】
特別性は真実を妨げる障壁
西暦2016年2月5日:金曜日




西暦2016年段階概念:佐藤篤代
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12115170669.html
前半
(1)【A Course in Miracles】特別な関係の再利用
(2)【A Course in Miracles】特別性におけるエゴの目的
(3)【A Course in Miracles】特別性の裏切り
(4)【A Course in Miracles】個体の特別性誘引による弊害
(5)【A Course in Miracles】エゴによる特別性の例外作り


西暦2015年段階の佐藤篤代
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12111785865.html

西暦2015年段階の概念:佐藤篤代
前半
(1)エゴの隠す特質
(2)エゴが隠し取り繕う過程
(3)2つの正反対の思考システム
(4)知覚ある世界はエゴが作った幻想
(5)スケープゴートの世界構造
(6)原因と結果の法則
(7)繰り返しのサイクルの終わり
(8)知覚ある世界の全てを棄てる
(9)幻想を幻想として見る『赦し』
(10)やり直しのスパイラル
(11)『全ての幻想を同じ』と見る視点
(12)エゴが作った幻想の再利用
(13)身体の脆さと死におけるエゴの目的
(14)身体は幻想・死はない
(15)【死の超越】の実態
(16)『罪の起源』の実態
(17)罪は幻想・罪はない
(18)罪の投影の世界構造
(19)スケープゴートへの罪の投影
(20)罪をでっち上げる世界
(21)エゴが罪悪感を作った理由
(22)罪悪感の投影の実態
(23)自分自身に対する戦いの実態
(24)【異世界レベル】の穴概念
(25)エゴが作った全ての再利用
(26)真の公平な視点
(27)「夢の主人公」の実態
(28)「攻撃の完全放棄」の実質
(29)与えることと受け取ることは同等
(30)【A Course in Miracles】の実態
(31)【A Course in Miracles】世界はない
(32)【A Course in Miracles】幻想の意味
(33)【A Course in Miracles】幻想の消滅
(34)【A Course in Miracles】エゴの思考システム
(35)【A Course in Miracles】エゴの台本
(36)【A Course in Miracles】エゴと聖霊
(37)【A Course in Miracles】聖霊
(38)【A Course in Miracles】死はない
(39)【A Course in Miracles】身体は幻想
(40)【A Course in Miracles】真実に対する防衛
(41)【A Course in Miracles】無防備は力
(42)【A Course in Miracles】聖霊への全託
(43)【A Course in Miracles】聖霊の計画
(44)【A Course in Miracles】概念:赦し
(45)【A Course in Miracles】実践:赦し

西暦2015年後半
(1)【A Course in Miracles】赦しの実際
(2)【A Course in Miracles】神概念
(3)【A Course in Miracles】真の世界
(4)【A Course in Miracles】原因と結果
(5)【A Course in Miracles】与える&受け取る
(6)【A Course in Miracles】与える全てを受け取る
(7)【A Course in Miracles】平和を知らせる意味
(8)【A Course in Miracles】6章:聖霊のレッスン
(9)【A Course in Miracles】peace
(10)【A Course in Miracles】第1:平和に対する障害
(11)【A Course in Miracles】第2:平和に対する障害
(12)【A Course in Miracles】第3:平和に対する障害
(13)【A Course in Miracles】第4:平和に対する障害
(14)【A Course in Miracles】miracle
(15)【A Course in Miracles】trust
(16)【A Course in Miracles】神の教師
(17)【A Course in Miracles】teach・learn
(18)【A Course in Miracles】権威問題
(19)【A Course in Miracles】judgment
(20)【A Course in Miracles】聖霊の判断
(21)【A Course in Miracles】夢の主人公
(22)【A Course in Miracles】the dreamer
(23)【A Course in Miracles】自己概念
(24)【A Course in Miracles】What am I?
(25)【A Course in Miracles】picture・frame
(26)【A Course in Miracles】seek・find
(27)【A Course in Miracles】外側を探し求めてはいけない
(28)【A Course in Miracles】偶像=全個々の存在=無
(29)【A Course in Miracles】全ての偶像を超えて
(30)【A Course in Miracles】幻想に隠された真実
(31)【A Course in Miracles】内側を見ること
(32)【A Course in Miracles】内側を見る恐怖
(33)【A Course in Miracles】隠された内側へ向かう実践
(34)【A Course in Miracles】たくさんの型;1つの修正
(35)【A Course in Miracles】1つの問題;1つの解決
(36)【A Course in Miracles】必要性の幻想
(37)【A Course in Miracles】根っこの問題と完全解決
(38)【A Course in Miracles】唯一の答え
(39)【A Course in Miracles】完全性・誤創造・償いの計画
(40)【A Course in Miracles】本当に求めること
(41)【A Course in Miracles】神の愛
(42)【A Course in Miracles】エゴの欺きの手段;特別性
(43)【A Course in Miracles】特別な関係のバリケード
(44)【A Course in Miracles】特別性の赦し
(45)【A Course in Miracles】特別性を棄てる





西暦2016年(年号:平成28年)
申(さる)年現在

【佐藤篤代について】

[本物:佐藤篤代がブログで言う核]
【A・Course・in・Miracles】の核心
・知覚ある世界全てはエゴが作った幻想
・他は無い・他は幻想
・エゴが世界に留める為の最大の欺きの手段は特別性だ。
故にエゴの欺きから脱するには特別性を棄てなくてはならない。
・知覚もエゴが作った。
エゴの作った世界の終わりとは知覚の終わりだ。

本物:佐藤篤代はこの【A・Course・in・Miracles】の核心を基本に、【A・Course・in・Miracles】の歪みを削ぎ落としながら、『世界は幻想』という実体験に基づきながら真実へ向かっている。
この点を徹底的に矛盾なくしながら追究している。

矛盾がない概念を採用し、その方向性を目指す。こうして矛盾と歪みをそぎおとしていけば、いずれエゴの欺き(幻想)の完全な終わりへ向かえると本物:佐藤篤代は考えるからだ。

『世界は幻想』とは【人間レベル】で言うと仏教的意味合いに近い。


[佐藤篤代]

佐藤篤代はあらゆる全ての思想的布教や教えの組織も含め、A Course in Miraclesに関するあらゆる機関、組織、同人誌を含めた全ての出版、講演、workshop、慈善事業、ボランティア、あらゆる公的活動には一切関わっていないし、永久に関わらない。その他相談的なもの、カウンセリング、ヒーリング等同等の行為にも一切関わっていない。また、イエス キリスト的な偉人系、隠れ偉人や仙人系でもない。

本物は将来性のないニート
(西暦2016年)
佐藤篤代は西暦2016年1月17日(日曜日)で40才
栃木県宇都宮市のド田舎生れずっと在住
日本人(血縁すべて日本人)
生まれてからずっと中肉中背
普通の容姿
西暦2009年から無職。それ以前は全部バイトかパート
生涯未婚で子無し


西暦2015年段階概念
http://simplog.jp/comment/19063121/23

佐藤篤代の現段階の概念
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12102633510.html

A Course in Miracles;世界は幻想という意味
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11740124334.html

西暦2016年版プロフィール
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12111502426.html

43才になったらやらない一覧
http://simplog.jp/comment/11771884/23

ニュースリンク(西暦2014年4月~)
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12102638099.html

【但し書き】必ずお読み下さい
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12101838092.html















【但し書き】
メール、コメント、いいね等その他全部のコミュニケーションは迷惑だからやめて下さい例外は一切ありません
全て別人へのコメントにしかなっていません。
なされる全てが【異世界レベル】の【主人公(偽者)用コメント】でインチキだと判明していますので、「現実の他者」に対する対応は一切しません。
容赦なくツッコミします。そのコメント等の目的、大元を崩す為に容赦ないツッコミをします。

佐藤篤代

概念:佐藤篤代/西暦2016年前半(6)
【A Course in Miracles】
特別性は真実を妨げる障壁
西暦2016年2月5日:金曜日