沖ノ島をとおる海北道中を経由して九州、宗像に上陸する渡海ルートがあり、渡来してきた秦氏の滞在地、すなわち高天原が南にあった。
巨大な注連縄が特徴の宮地嶽神社拝殿
宗像大社の南にある宮地嶽神社(赤点)は秦氏創建の神社で、対馬見山(アララト山)の南麓にある。北西の津屋崎に注目して欲しい、地形が島根半島、若松半島、下関市吉母(梅ケ峠の西側)など共通して、海岸との間を遮っていることに気づく。隠れ家的な地形となっている。
朝鮮半島、対馬北端、沖ノ島そして宗像大社を通過する海路である海北道中が直ぐ北にある。
対馬見山の南の宮地岳の麓に食い込む嘆きの壁形式の境内。
西に海岸まで延びる参道がある。鎌倉の鶴岡八幡宮、対馬の和多都美神社が典型であり、海からの上陸を象徴している。参道の向こうに天の岩戸がある相島があった。さらに、天照大神の天の岩戸隠れの伝承にも矛盾しない。
宗像大社と宮地嶽神社の辺り、宗像市と福津市の中間は古墳群であった。
参考
あるウェブからの抜粋であるが藤村大神と藤頼大神は秦氏であろう: 宮地嶽神社の現在の祭神は、神功皇后(息長帯比売命)と勝村大神、勝頼大神となっている。神功皇后に従っていた勇将に、藤高麻呂と藤助麻呂という人がいて、新羅で大功をたて、帰還後、この土地を領して開発殖産をしたという。そこで土地の人々は、両将を祖神と仰いで、藤高麻呂を勝村大神、藤助麻呂を勝頼大神として崇め、神功皇后の神霊とあわせて当社を創建したという。また、既に神功皇后の遙拝祠があって、両将が帰国後その祠掌となり、後、神功皇后を合祀して当社を建立したともいう。当社の境内は5万坪もあり、神社の周囲に御供田、九拝田など、かっての神田の名称が残っていて、往時から盛大な神社であったことは間違いない。