相島、宮地嶽神社の西隣 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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天の岩戸のモデルとなったと思われる場所を筑紫の日向の近くに発見、まさに、太陽神、天照大神がお隠れになるに相応しい、夕陽が照り輝く方向にあった。

相島(あいのしま、あいしま)は、福岡県糟屋郡新宮町の島(有人島)である。新宮漁港から北西約7.5キロメートル、町営渡船でわずか17分の玄界灘の海上に浮かぶ。東西に細長く南に面して入り江になっており、夏季の台風接近や冬季の北西寄りの季節風等により玄界灘が荒れている場合も、対岸の九州本土に比べて船の出入りが可能であることが多く、昔から急な荒天の場合の船の避難場所となっていた。航路としては、壱岐・対馬経由の通説として知られているルートと宗像氏が支配している海北道中の2ルートを選択出来る場所にある。このため、大陸と九州を結ぶ航路の要衝にあたり、古くから知られていたと見え、万葉集や日本書紀などの中に「阿恵島」「吾瓮(ミアヘ)」の名で表れている。後世、豊臣秀吉の朝鮮征伐や、朝鮮通信使の接待にもこの島がクローズアップする。

三日月形の島内には国指定史跡の「相島積石塚群」など貴重な遺跡や神社をはじめ、珍しい鼻栗瀬(通称めがね岩)や柱状節理の絶壁など大自然の造形美が見どころである。

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右手の離島がめがね岩、右手上の海岸に石積塚群の遺跡があり、宮地嶽神社参道の延長方向にある。

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石積塚、長井浜(ナガイ浜)の積石塚は5世紀後半~7世紀のもので4~6世紀の朝鮮の伽耶系の土器も出土して朝鮮半島とのつながりがうかがえる。(ウガヤフキアエズノミコトの墓がある)

500m×50m位の範囲に250基以上の古墳時代中期~後期の積石塚群があり、円墳、方墳が中心だが、前方後方墳もある。(120号墳)海人族(安曇族)との関係がうかがえる貴重な遺跡で、平成13年に国指定遺跡になっています。宮地嶽神社の参道がピタリとこの古墳群に向けられており、東方向にはヤマトや伊勢があり、神社境内地と古墳群は同時期に位置調整が行われたことがわかる。つまり、宮地嶽神社は安曇族(秦氏)の神社であった。

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鼻栗瀬(めがね岩)

島の東300メートルの海上にそそり立ち、全体が玄武岩でできています。高さ20メートル、周囲100メートルで海食洞があり、通称めがね岩と呼ばれています。平成18年2月21日に鼻面半島とともに県指定文化財(名勝)に指定されました。


参考

相島には高妻神社と若宮神社があり、山幸彦と海幸彦の話しと、豊玉姫が山幸彦と結婚し葺不合尊が生まれ、育ての親の玉依姫と結婚して神武天皇が誕生する話しがある(参考1参考2)。すなわち、妻の玉依姫、母の豊玉姫は安曇氏の出である。






読みが同じ北九州市の藍島も安曇族(秦氏)の墓かもしれない。