貝原益軒の『筑前国続風土記』に「本物の海の中道は津屋崎にある」と書かれている(参考)。
確かに津屋崎の渡半島は、古代は筑紫の日向の可愛と云われるくらい、立派な海の中道の地形であった。そして、宗像の神湊の草崎と南の勝浦浜、すなわち海の中道の付け根は当時、完全にはつながっていなく、渡半島はエイの頭、勝浦浜はエイの尾(エイノオ、可愛)であった。
神武天皇の東征神話で、宮地嶽神社、すなわち筑紫の日向から東の崗水門(または岡田宮)に行こうとすると、直接、玄海灘に出て渡半島の沖を大回りするよりも、潮の流れはかなり速いが未だ繋がっていなかった勝浦浜の北の瀬戸を通って、草崎、神湊方面に抜けた方が当然早い。日本書紀のいう速吸之門はこの勝浦浜の北岸の瀬戸を指す。さらに東に進んで、やがて遠賀川河口の入り口にあった筑紫国崗水門(オカノミナト)、または洞海湾内の岡田の宮に着く。神武天皇が泊まられたこの辺りは、渡来人秦氏の上陸地である高天原(八幡)であった。
参考
年毛神社の鳥居前、階段の段差が海の中道(エイノオ)の尾部にあたる。
エイノオの最尾部、右手の暴風林の薄くなる辺りから右(北方向)が旧速吸之門であろうか!
速吸之門跡、右手は勝浦浜の住宅街になっている。向こうの右手の山は草崎です。