特牛、こっとい | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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山口県の北浦海岸に「特牛、こっとい」という地名があり、この名前のJRの駅もある。


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「特牛」と書く、なぜ特牛を「こっとい」と読むのか地元の人もわからない。 ただ、この地で産する気の荒い雄牛をコットイ牛と地元では呼んでいる。「重荷を負う強健な牛」の意から来たと言われ、山の木材運搬に使役された。実際、コットイ牛の角で殺される危険があり、キン抜き(去勢)をする。高知県では「こっとい」とは種牛を意味するとか。


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小さな入江がたくさんある北浦海岸、魚の豊富な漁場である。

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特牛港、小さな入り江を示す琴江から取ったという説もある(wikiより)。

ある説に、特牛は宇佐神宮の神領でその宮司の大神氏に大神特牛(おおがのことい)だったと言う説があるが、間違いである。この地、特牛は島戸、肥中、付野、和久とあわせて島戸の東門鎮護住吉八幡宮の神領であり、山口県下関市豊北町大字神田となっている。

コットイと呼ぶ地域は中国、四国の一部(参考)。

平安時代末期に編纂された歌謡集『梁塵秘抄』に「特牛(ことひ)」という言葉があり、またこの土地はその当時から特牛と呼ばれていたようです(参考)。


参考

魏志倭人伝(3世紀)には、日本には牛馬がいなかったことが明記されている。家畜牛が大陸から本格的に持ち込まれたのは古墳時代以降とされている(参考)。馬が先で牛は後から輸入され、関西では牛小屋なのになぜウマヤ、牛の市もウマイチと言う。古墳から馬具や馬の埴輪が出土し、馬具は5世紀に近畿からはじまり6世紀に全国に広がる。古墳時代後期以降に、馬に加えて牛も飼われるようになった(参考)。

『延喜式(えんぎしき)』などの記録で、ヤマト政権への献上品を知ることができる。そのなかに牛乳加工品(チーズが最上品)を献上させて食していた。ヤマト政権をつくった渡来人は牛乳加工品を食す文化を持つ人たちと推測出来る(参考)。

牛のルーツは、ヨーロッパ~西アジアに分布した原牛が進化、飼いならされたものが家畜化したと云われている(参考)。遺伝的に見ると、日本のウシは中国やヨーロッパのウシと近いことが分かっている(参考)。

古代エジプトでは、様々な動物が神として崇拝されていた。牛もその一つであった。インドの祇園精舎の守護神は牛頭(ごず)、日本の神社、特に天満宮に牛の石像を見かける(参考)。また、この「コットイ」は古代ヘブライ語では聖なる牛「聖牛」という意味と言う(参考)!古代エジプトでも聖牛の事を「コットイ」と言う(参考)!

角島、特牛港の西方
釣船や橋でつながる角島は周囲約十二キロの瓢箪型の島で、中央部の丘は牛の放牧場になっている。コットイ牛の産地でもある(参考)。延喜式(平安時代中期)にすでに官立の牧場が存在したとの記載がある(参考)。

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角島の牧場

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角島、牧崎には1300年前から牛を放牧していた歴史がある(参考)。

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万葉集にも角島が載っている。

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特牛港と角島

見島牛
山口県萩市の西北約45km、日本海に浮かぶ孤島「見島」に、古くから役牛として飼われていた牛がいます。この牛は古くから在来(アジア大陸より朝鮮を経て渡来)和牛で、渡来以来、外国種と混血することなく、世界でも稀にみる遺伝的に純度が高く日本在来種の姿を最も残している牛群で、島の名前から「見島牛」と呼ばれています(参考1参考2)

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見島牛の牧場

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昭和初期の農耕、見島牛