宇佐神宮の力の根拠 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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なぜ、宇佐神宮の謎道鏡皇位事件で、伊勢神宮ではなく、宇佐神宮が神託を下したのか?

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宇佐神宮本殿

弓削道鏡を帝にという神託の正否をめぐって、禁裏のみならず日本国を騒がせた政争となった。道鏡の皇位託宣を出し、また改めて覆したのは豊前国の宇佐神宮であった。称徳帝の勅使として八幡神の神託を確かめたのが、和気清麻呂である。

ちなみに、伊勢神宮は天照大神、宗像大社は宗像三女神、宇佐神宮は応神天皇、姫大神、神功皇后が主祭神であった。ここで、天照大神、宗像三女神は崇神天皇に関わる神であったことを思い出した。また、宇佐神宮の姫大神は宗像三女神のことであった。神功皇后も天照大神、宗像三女神と同一神かもしれない。

つまり、大まかには伊勢神宮、宗像大社は崇神天皇の一柱を祀るのに対し、宇佐神宮は応神天皇、崇神天皇の二柱を祀っていることになる。当時、応神天皇を支持する渡来系氏族、秦氏の力が最高潮に達しており、東大寺建立にも最大の寄与をした。発言力は抜群と言わざるを得ない!


参考








4箇所の高天原、すなわち出雲、下関の梅ケ峠、北九州市八幡、宮地嶽神社は嘆きの壁を持つ秦氏系の神社を目印に発見した(秦氏の渡来ルート)。これらは応神天皇(ワケ系)以来の大規模な秦氏の渡来に対する受け入れ施設であった。これに対し、宗像大社や伊勢神宮は神社の形式がこれらと異なっていることの理由は、これら2社は崇神天皇系(イリ系)の100年以上も古い神社形式であったことである。宇佐神宮は崇神天皇系の神社に応神天皇を祀ったために、多くの配下の八幡宮の形式と形式が異なった。