赤線が新羅使の公式渡海ルート、対馬、壱岐から大宰府に向かう。長門国にて対応する天智天皇は、朝鮮半島からの諜報員が対馬海流に乗って黄色の渡海ルート(海北道中)を先回りして情報を集めているので、有利な交渉を行う事ができる。
日本書紀に大宰府は大々的に宣伝されるが、長門に関しては秘密や曖昧な歴史が多い理由が理解出来る。万葉集1-20の額田王の歌で「標野」は「横野」の誤記では無く、わざと書き換えたことも考えられる。
参考
遣新羅使(けんしらぎし)は、日本が新羅に派遣した使節である。新羅が朝鮮半島を統一した天智天皇七(668)年から承和三(836)年の間、計二八回派遣されている(参考)。
668年の新暦での年表:
6月19日 - 天智天皇、長門国蒲生野を行幸
9月 - 新羅使、調を貢進する。
10月 - 唐・新羅連合軍が高句麗を滅ぼす。
11月 - 第1回の遣新羅使、新羅使の帰国に同行する。(コトバンクより)