記紀には書かれていないが、天智天皇は長門国で政治を行った | 日本の歴史と日本人のルーツ

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天智天皇は新暦の668年の6月ころから11月ころは、近江国大津宮で執政した事になっているが、実際は長門国に滞在し、対朝鮮半島対策を行っていたと推測出来る。高句麗の滅亡の年、新羅からの使いは公式の窓口である北九州の大宰府に止め、天智天皇は本州最西端の長門国から交渉を指揮していたであろう。

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赤線が新羅使の公式渡海ルート、対馬、壱岐から大宰府に向かう。長門国にて対応する天智天皇は、朝鮮半島からの諜報員が対馬海流に乗って黄色の渡海ルート(海北道中)を先回りして情報を集めているので、有利な交渉を行う事ができる。

日本書紀に大宰府は大々的に宣伝されるが、長門に関しては秘密や曖昧な歴史が多い理由が理解出来る。万葉集1-20の額田王の歌で「標野」は「横野」の誤記では無く、わざと書き換えたことも考えられる。


参考

遣新羅使(けんしらぎし)は、日本が新羅に派遣した使節である。新羅が朝鮮半島を統一した天智天皇七(668)年から承和三(836)年の間、計二八回派遣されている(参考)。

668年の新暦での年表:
6月19日 - 天智天皇、長門国蒲生野を行幸
9月 - 新羅使、調を貢進する。
10月 - 唐・新羅連合軍が高句麗を滅ぼす。
11月 - 第1回の遣新羅使、新羅使の帰国に同行する。(コトバンクより)


下関市の吉母に、白村江の戦いの本陣が築かれたという地元の言い伝えがあるらしい(参考)。