邪馬台国の範囲 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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宗像の南西、後世(3世紀後)に乱を起こした筑紫君磐井の所有した糟屋の屯倉あたりを境にして東方向に、福津、宗像、岡垣、北九州、大分北部、山口、島根、出雲、奈良の辺りが邪馬台国である!さらに海人族安曇氏、住吉氏の縄張りの博多湾内も邪馬台国である。朝鮮半島の任那も一部か!

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邪馬台国

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纒向型前方後円墳、邪馬台国内は纒向のみしか無いことに注目して欲しい。独立した王族同士が見栄の張り合いで築造し、同一国内では王族のみが築造できたと理解出来る。

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三角縁神獣鏡も同様で、邪馬台国の王族、または邪馬台国に服従した印として各地の王に下賜したと理解出来る。

初期秦王国(イツツヒコ王国)の領土は、元々、畿内や北九州(宗像以東)と同族で争いが少なく、その分、纒向型前方後円墳や三角縁神獣鏡などを必要としなかったのであろう(参考)。応神天皇の時代(5世紀から)には出雲、下関の梅ケ峠、北九州の八幡、宮路嶽神社が渡来人の受け入れ基地としての高天原となるように、元々、渡来人の地域であったので自然に邪馬台国にまとまったのであろう!(参考: 弥生時代中期まで人口の少ない山陰に渡来人は最初、入植した)

3世紀中頃の崇神天皇(イリ系王朝の始祖、神武天皇の実体)は筑紫の日向から、4世紀末の応神天皇(ワケ系王朝の始祖)は下関から大和に東征した。卑弥呼は天照大神として高天原(宗像大社中津宮、参考)に勤務し、伊勢神宮内宮伊雑宮(参考)で晩年を崇神天皇と過ごし、箸墓古墳に埋葬された。


参考

魏志倭人伝の解釈

魏志倭人伝の和訳(女王国と邪馬台国を同一視している)、比定地名などは大和説に基づく、邪馬台国以外の国をプロットすると、邪馬台国の輪郭が浮かび上がる。


神武東征ルート(出発地付近、参考)。3世紀、崇神天皇の頃か!

神武東征ルート上の瀬戸内海には邪馬台国に対抗出来る国があった(参考)。戦いの為に、九州から瀬戸内海全体、さらには畿内にまで広がる高地性集落があった(参考)。

筑紫の日向の橘の小戸のアワギハラである博多湾内の小戸神社も邪馬台国の範囲


宗像大社中津宮は卑弥呼の宮殿!(織姫が卑弥呼=瀬織津姫=天照大神)

5世紀以前の初期秦王国(参考)の範囲(参考)。3世紀中頃の卑弥呼の時代、古墳時代から邪馬台国に属した模様。弥生時代の後期は独立、中立であった。従って、山陰海岸側には古墳時代中期まで前方後円墳が無かった(参考)。

弥生時代後期から古墳時代においては山陰地方は朝鮮半島からの渡来人で人口が膨らんでおり出雲は初期秦王国に属した段階で国譲りが完了していた。山陰地方は倭国大乱にも関係無く、独自の大型古墳を築いていた。

豊葦原中津国は3ヶ所あった(5世紀以降の応神天皇の誕生以降)

6世紀頃の大和政権の範囲(参考)。