太陽暦の普及の歴史とユダヤ人の渡来 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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太陽暦の伝播は、古代エジプトにはじまり、ローマには紀元1世紀ころに伝わった。東方へは、エジプトを出て中東(エルサレム、ペルシャ)経由で、紀元前3世紀までに羌族に伝わった。この太陽暦は中国には根付かずに日本列島に(斉系弥生人により山陰海岸に?)、紀元3世紀までに伝わった。すなわち、太陽暦の天文学者(太陽暦博士)を含む民がエジプトから中東(エルサレム、ペルシャ)を経由して、最終的に日本列島まで渡来した事になる。魏志倭人伝によると、邪馬臺国の民は太陽暦に基づく生活であった。正確な暦の編纂は高度な天文学者を必要とし、エジプトまたは中東からの渡来人の到着が考えられる。

ところで、エルサレムの壊滅は西暦135年、後漢の滅亡は西暦220年であり、エルサレムの太陽暦博士やユダヤ人の民がローマから逃れて東に移動して後漢時代の羌族地域に到着しても、子孫の安住の地では無かった!再度、後漢の滅亡、羌族を含めた民の混乱、ボートピープル化に遭遇した。即ち、彼ら太陽暦博士やユダヤ人の民の子孫達は皆、卑弥呼の居る邪馬臺国に渡来した。もちろん、逃げ遅れた子孫達は朝鮮半島経由で、年月をかけて渡来することになる!

秦氏のユダヤ人説はこれで説明できる!秦氏全員がユダヤ人であった訳ではなく、一部、紛れて存在した!時期的には景教徒では無く、ユダヤ教徒であった。ただし、彼らを遺伝子的に追跡出来る可能性は難しい(参考)。


日本は飛鳥時代に太陰太陽暦になるが、中国と日付を一致させる為の妥協であろう。

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山口県長門市日置町古市、日時計の町(夏至、冬至の線上に道路がある古代の都市設計)


参考

① 紀元前3世紀ころまでに作られた羌族の太陽暦

イ族が発明したといわれる『十月太陽暦』は、実は古代チャン人の聡明な知恵の産物であり、秦の時代(紀元前3世紀)に実施された『十月太陽暦』の源はここにあると考えている(参考)。

しかし、中国の歴代皇帝は太陰太陽暦のままであった。



本居宣長は、日本では中国から暦法が入ってくる前は太陽暦思想があったとして、〈かの空なる月による月(朔望月のこと)と年の来経(きへ)とを、しひてひとつに合はすわざ(太陰太陽暦のこと)などもなくて,ただ天地のあるがまゝにてなむありける〉といっている。中国の3世紀のころの書である《魏志倭人伝》にはすでに日本では稲作をしていた記事があり、5世紀ころ加えられた補注には〈其俗正歳四時を知らず、但春耕秋収を記して年紀となす〉とある(コトバンクより)。




④ 日本の海人族の太陽暦

星の位置は一日周期の他、一年周期で変化します。すなわち海人族には太陽暦が必要であり、航海の吉凶と太陽暦による占いに関係がありそうです。季節の変化は太陽暦であり、季節風の風向きの変化、台風の時期の予測などが代表的です(参考)。


⑤ ユダヤの第二神殿時代(西暦135年のエルサレムの壊滅)までは太陽暦だった: 東京大学のある論文の一部をコピーした(参考)。

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西暦135年にエルサレムは壊滅した:

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⑥ 紀元前330年頃からイスラム教が成立する7世紀以前のペルシャは、エジプトからの太陽暦であった(wikiより)。


⑦ マヤ暦:  紀元8世紀頃

マヤ人によって行われた暦。1か月は20日からなり、1年は18か月と、不吉とされる余日5日(ワエブと称する)からなる365日で、閏(うるう)日をまったく置かない純太陽暦である。日は20個の名称と1から13までの数を組み合わせた260日で循環する。260日周期をツオルキン周期とよぶ。260日につけられる異なる日の呼称は、日本で日に配される干支(えと)に相当する。1太陽年は20×18+5=365日であるから、1年で5日分ずつ日の名称はずれていき、52年を経過して同月同日に同じ名称に戻る。52年を「暦の周期」とよんでいる。ツオルキンの各日には吉凶が割り当てられており、干支が日に配されて吉凶が付せられているのと類似している。1日をキンという。20キンすなわち20日をウイナル、18ウイナルを1トウン、20トウンを1カトウン、20カトウンを1バクトウンという。マヤ暦は二十進法を採用していて、上記の単位を使って暦元からいくらでも大きな日数を表すことができる。[渡辺敏夫](コトバンクより)


⑧-1 現在の太陽暦

太陽暦はローマ時代、西暦紀元前45年にシーザーによって制定された。日本は飛鳥時代から明治時代初期までは太陽太陰暦で、これ以降に太陽暦が入ってきた。中華文化圏、イスラム諸国は太陰暦を採用してきた(wikiより)。

⑧-2 古代エジプトの太陽暦

古代エジプト人たちは1太陽年が365日であることを測定し、これを30日をひと月とする12カ月にわけ、年のおわりにさらに5日をくわえた。紀元前238年ごろ、プトレマイオスIII世は4年ごとにさらに1日をくわえるようにした。これはちょうど現在の閏年に相当する。(参考)。

⑧-3 古代ローマの暦

紀元前8世紀のロムルスによるローマ建国の頃、暦は春めいてくる三月から始まり10ヶ月で終わり、冬の間は月の名前もなく調整に使われていました。その後第二代のヌマ王が冬の間の2ヶ月を命名してJanuarius(一月)、Februarius(二月)として三月の前にもってきました。このため7、8、9,10、を意味するSept,Oct, Nov, Decが9月、10月、11月、12月にシフトしたと思われます。それはともかく、一ヶ月を29日と30日で構成し、季節がずれると閏月を入れて調整する太陰太陽暦の基礎ができ、ヌマ暦として数百年使われました。

しかし長い間に閏月挿入の管理も乱れ、シーザーの頃には暦と季節が合わなくなっていたようです。そのため紀元前45年、シーザーは暦の改革を行い、エジプトの暦を参考にして一年を太陽の運行365.25日とし、奇数月を31日、偶数月を30日とし、更に4年に一回閏年として平年より一日多い月を設け、ユリウス暦とよばれる太陽暦を制定しました。平年が29日、閏年が30日の月を二月にしたのは、暦が三月から始まっていた時代の名残で最後の月が二月だったからと言う説です。ついでにシーザーは第7番目の月を従来の名前、Quintilisの代わりに自分の名前を入れ、Julyとしています。シーザーの死後、4年に一度の閏年の管理があいまいになり、再度シーザーの後継者、アウグストウスが矯正し、少し余計なことをしています。即ち、第八番目の月Sextilisを自分の名前に代えAugustとし、本来偶数月で30日だったものを一日増やし31日とし、その分二月を一日減らしています。従って二月の平年は28日、閏年を29日とした最終的なユリウス暦がヨーロッパ諸国の標準になりました。

ユリウス暦も1500年使うと暦と季節が少しずつ狂ってきて11日ほど暦が遅れ、宗教行事に支障がでたローマ法王グレゴリオ13世が暦の改革に乗り出しました。ユリウス暦では一年の長さを365.25日としていますが、その後の天文学の進歩で実際は365.2422日であることが分りました。そこで計算の結果、閏年は4年毎だが、100年毎の閏年は平年とし、400年毎に平年でなく閏年とする、ということに決めました。更に遅れた11日をスキップして暦をスタートしました。是が1582年に制定されたグレゴリオ暦と呼ばれるもので今日の太陽暦の暦です。

太陽暦の一月一日は古くはヌマ暦の一月一日であり、中国や日本の太陰太陽暦の正月元旦のような天文学的な意味はないということです。敢えて云えば冬至の十日後ということでしょうか。 

加筆:更に調べたところ、ヌマ暦で一月、二月が加えられる以前の暦では最初の月は春分の日を含んでおり、その月の新月を一日としたことから、前に加えた二ヶ月の最初の日を一月一日としたといわれています。

余談ですが西暦2000年はコンピュータの2000年問題で大騒ぎしました。実はその問題となった本来の事とは別に、西暦2000年はグレゴリオ暦では400年に一度の特殊な閏年扱いの年だったわけです。グレゴリオ暦を生半可に理解していると100年毎の閏年ではない平年としてしまうけれど、実は400年に一度の例外閏年です。寧ろ何も知らずに閏年は4年毎、と思って作った怠け者のプログラムの方が問題の発覚がなかったことになります(参考)。














10-5  共通性、相撲、現代イスラエルには無い




10-7 7世紀後半、白村江の戦いに敗れ、引き取った百済遺民は倭語を喋るユダヤ人(ヘブライ人)の末裔だった(参考)


10-8 条里制地割の都市計画はエルサレムあたりからシルクロードに沿って日本列島に分布する(参考)


11 縄文時代には太平洋の航海の為に太陽観測が行われていた(参考)


12 山東半島の付け根、日照市に太陽信仰の古代遺跡があった(参考)