対馬と海人族安曇氏 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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対馬は対馬海峡の真っ只中にある稲作に不適な島であった。すなわち、交易と漁業の島であり、海人族安曇氏の根拠地であった。交易に関しては金属(銅や鉄の原材料や製品)を中国大陸、朝鮮半島、北九州、本州本土などと交換した。食料に関しては、響灘の対岸の東鯷国などに鮮魚などを下ろし、対価としてコメを得ていた(参考)。

倭国大乱前までは、北九州は銅剣・銅矛、鉄器の生産拠点であり、中国大陸などの原材料と中継・交換していた(参考)。本州本土とは、分かっているところでは魚、米、さらに銅・鉄との交換を行っていた。銅鐸文化圏との交流については、銅鐸文化圏の海岸部、すなわち出雲以東の同族が担当者してのであろう。

海人族安曇氏は日本各地に渡来系弥生人達を渡海させ、予め用意した開拓地に入植させていた。すなわち、彼らは日本列島の大家的存在であった(参考)。塩に関しては、藻塩製塩は海人族安曇氏一族が一手に引き受けていた。ある意味、生活基盤を支配していた(参考)。ある意味、北九州の国々の対馬への友好の証として銅剣、銅矛があったのであろう。

対馬や出雲あたりに銅剣や銅鐸がまとまって出土したが、九州や大和の弥生人(呉系と越系)から対馬(海人族安曇氏)と出雲(斉系弥生人)への友好の証として贈られて来たものを、まとめて埋納したと考えられる。お中元の箱の山を倉庫に入れる様なものであった。

この弥生時代の対馬の役割を見ると、海人族安曇氏の根拠地は対馬であったと思われる!確かに現在においても式内社の神社が沢山あるが、根拠地と言われる志賀海神社は北九州の志賀島となっている。志賀島と言えば、漢倭奴国王と言う金印が出土した位で、奴国の領土と言った方が腑に落ちる。

これも状況証拠からの推測であるが、乙巳の変(645年)で殺された蘇我蝦夷・入鹿の親子は海人族安曇氏の子孫であり、対馬は彼らの所領であった。しかし、天皇的振る舞いが祟り、中大兄皇子(天智天皇)に殺された上に財産を取り上げられた(参考)。宗像の鐘崎漁港や博多湾内の住吉神社に近い、まともな漁港も無い中途半端な志賀島に移転させられたと考えられる。白村江の戦いの事前準備と考えるのは穿ち過ぎか?

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参考

① あるURLを抜粋した。

{89792EBC-FAB1-4296-8F8D-CC46F8FA81B8:01}図1‥‥対馬 縄文・弥生・古墳時代の遺跡

対馬は140本を超える広形銅矛などの青銅器が発見されており、『青銅器王国』と呼ばれています。

対馬の青銅器は、弥生時代後期の箱式石棺から出土するほか、神社に奉納されていたり、集落近くの土中に埋められた状態で発見される場合もあります。現在、青銅器は錆びて「青銅色」になっていますが、本来は白銀~黄金色に輝く神器であり、権力・武力・祭祀などの王権の象徴でした。

・中国製品……鏡(内行花文清白鏡・明光鏡・方格規矩鏡)、貨泉
・朝鮮製品……細形銅剣、変形細型銅剣、剣柄、鍔(つば)、把頭金具、馬鐸(ばたく…扁平な筒型の内部に舌を下げた青銅器)、笠頭形金具(馬具)、角形銅器(工具)、双頭管状金具、有孔十字形金具、土器、鉄斧(おの)、
・日本製品……銅矛(どうほこ…中細、中広、広形)、銅戈(中広)、小型倣製鏡、巴形銅器、銅釧、弥生式土器、
・その他……鉄器(剣、刀子、やじり、釣り針)

弥生の中期末から後期以後になると、目立って青銅器が箱式石棺に納められるようになりました。他に鉄器や土器も納められ、その上舶載地域も中国、朝鮮、日本の各国にわたっている。

この中で最も量的に多いのは朝鮮製品で、種類も豊富である。次いで日本の青銅器が多く、両者は一緒に箱式石棺に納められている。土器は両国のものがあり、棺に供献されるが、弥生式土器の方が優勢である。豆酘(つつ)の生活遺跡の調査では弥生式土器90%、朝鮮無文土器10%で、対馬人は各国の文物を持つが、基本は弥生文化系の人間であることが判る。弥生人の活躍で朝鮮等の青銅器を入手したものであります。

入手した青銅器はどこからでも出土するものではなく、有柄式石剣の出土地にかぶさることが多い。浅茅湾北岸・三根川下流域の対馬西岸中部から上県町などの北岸地域に集中し、主要な遺跡として北から佐護クビル(図1-8)・白岳(図1-9上県町)、木坂(図1-21)・サカドウ(図1-20)・タカマツノダン(図1-23)・ガヤノキ(図1ー22)・エベス山(図1-27‥峰町)・唐崎(図ー34)・シゲノダン(図1-31)・東ノ浜(図1-37)・佐保赤崎(図1ー35‥豊玉町)などがある。この地域は両港たる浅茅湾を含むと共に、朝鮮南岸巨済島あたりから、御嶽、白嶽を目指してくれば、最も着岸し易い場所でもある。

東岸沿いにも比田勝の『塔ノ首(図1-4‥上対馬町)や小姓島(図1-17‥豊玉町曽)など一部進出する。

対馬で青銅器が栄えていた弥生中期末~後期の時期の日本は青銅器から鉄器への転換の時代で、実用具としては鉄材料を欲していた。これと並んで、祭祀用の銅器を多量に生産する時代であるから、青銅原料を需要した。特に福岡平野と周辺は銅矛生産地帯で、ここでの生産の“数割にあたる100本以上“が対馬に出土しているので、対馬人のためにも莫大な銅原料を必要としていた。銅矛の見返りとして対馬島民が提供し得たのは、生産品のこれとしてない対馬では銅原料になるこれら朝鮮で不要の銅製品しか考えられない。南北に市糴(してき)して中継貿易者としてたつきを得ていた。北九州への運搬先は福岡平野だけでなく、銅戈を製作する北部九州全域と考えてよい。対馬島民は玄界灘のフェニキア人である。

彼らは常に海に面し、海風に曝される岬や小島の先端に墓をつくる。一時期2~3基の小規模なもので、永続性はない。非常な小人数でグループをつくり、稼動性に富む生活を送っていたらしい。この傾向は断続たえまないが古墳時代の後期にまで続く。弥生と変わらない箱式棺で封土を築く事も少ない。青銅器や華やかな副葬品もなく、海民として常に変わらぬ生活を続けていたものであろう。

古墳時代(4世紀)になると封土(割石積)を持った古墳や前方後円墳(出居塚古墳)が現れ、畿内的な墓制が侵入してくる。しかも弥生の中心地であった西海岸から東海岸の現在の美津島町鶏知付近に移動、集中し始める。その後の横穴式石室も上島に分布し、海の自由人対馬の民は新しい社会の中に包括規制されて行った。(九州大学・下條信行) 


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畿内の弥生時代を彩っている最大の出土品は、おびただしい銅鐸(どうたく)の列である。銅鐸はおそらく祭祀具、つまり宗教的に使われたのだろうが、九州からはほとんど出土していない。つまり九州と畿内との宗教的差異をこれほど特徴的に現しているものはなく、『魏志倭人伝』を見る限り倭人たちは鏡や矛を祭祀に使っていたものと思われる。ところで、銅鐸について全くふれることのなかったのは『魏志倭人伝』ばかりでなく、『古事記』や『日本書紀』も同様で、銅鐸があったということすら全く記されていない(注: 邪馬臺国は山陰文化圏で、九州や大和の弥生文化圏では無い)。この事実は、銅鐸人たちが、そのまま畿内に勢力を持ち続けて、次の時代に大和王朝を樹立した中心勢力となったのではないという事実をさし示している。

銅鐸の製作は、弥生時代の前期、つまり西暦前五十年ごろ始まって、西暦二百年前後に大型化し、三百年ごろになると、集落ごとに集められ、埋められて、突如として姿を消してしまう。そのあまりの突然さに、銅鐸人が、他種族の侵略攻撃を受けて、まず大切な祭祀具を地中に隠し、続いて必死の攻防戦を展開した末に滅亡したのではないかといった想像すら浮かんでくるのであって、当時の銅鐸人は、倭種であったろうが、魏使のいう倭人ではなかったかもしれない。(注: 越系弥生人、北九州は呉系または燕系弥生人、山陰は斉系弥生人)

銅鐸人が、他部族の侵略を受けて、あるいは死に、あるいは逃げ、ある者は降伏して吸収されていったのではあるまいかと想像する根拠の一つは、のちに大和王朝を樹立して、八世紀に官撰の歴史書である『日本書紀』を撰録した天皇家とその従属者たちが、九州型の、鏡や剣や玉を祭祀具として使う宗教をもっていたからである。(注: 響灘から出雲あたりも、鏡や剣で祭祀に使った)。

古代人の争いは、宗教、つまり祀りごとと、政治(まつりごと)を、共にしない者、"まつろわぬ"者、つまり服従しない他部族との間に起こっていたために、この"まつろわぬ"者を征服して、まつりごとを共にするようにさせることが、つまり侵略であり勢力圏の増大であった。

古代の戦いは、ただ単に人間同士の戦いであるばかりでなく、同時にそれは両部族の神と神との戦いであって、負けると人間ばかりかその神も負けたことになってたちまち霊力を失うことになると、上田正昭京大教授がいっている。(注: ライバルを神として祀って、互いに仲良くするものだから、争いとならば、神もなくなる。例えば住吉神社が典型であるが、農耕民の五穀豊穣の神が漁師の長であった。幾ら古代でも理性は持っており、魑魅魍魎を信仰しない。銅鐸も銅剣・銅矛も仲良しのシンボル、すなわちお中元に過ぎない。神社の信仰は氏子同士の統合の確認とか、異民族間の信頼の証しとか、政権への服従の証などの実利があり、魑魅魍魎などの霊力を信仰するなど非合理性は例え古代でも無い。
)《邦光史郎著 邪馬台国を推理する より》


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[7]佐志賀 黒島遺跡
■所在地‥‥対馬市豊玉町佐志賀 黒島
■時代‥‥‥弥生時代後期(2000年前~1700年前)
■概要‥‥‥1890年(明治23年)頃、対馬の中央部に位置する豊玉町にある佐志賀の黒島(浅茅湾の奥まった入り江に浮かぶ小島)で、15本の広形銅矛が一括して発見されました。見つかった広形銅矛は、柄を取り付ける矛の袋部に鋳型の土が詰まっていて柄を取り付けることができない状態であることや銅矛の刀部に研磨した痕跡がみられないことから、実用品として使われていないと考えられます。

調査の結果、15本の広形銅矛は、棺内や墓坑に関連する場所から発見されたのではなく、一括して納められた埋納遺構から発見されたこともわかりました。広形銅矛の一括出土の事例としては対馬島内の遺跡で最多の本数を誇ります。

対馬国で発見されたほとんどの銅剣が西海岸(朝鮮海峡側)にある遺跡から発見されています。また、銅剣と一緒に銅剣の柄の端部に取り付ける青銅製の把頭飾(はとうかざり)もたくさん見つかっています。見つかっている青銅製の把頭飾も個性があり、空洞の中に一つの丸い玉が入った把頭飾《 恵比寿山遺跡出土(図1-27、画5、峰町) 》 二匹の龍が背を向けた状態を表現した十字形の把頭飾《佐保シゲノダン遺跡(図1ー31、豊玉町)》、中国前漢で製作された装飾付きの把頭飾《かがり松遺跡(美津島町)》など多種多様な形状をしています。

対馬の有力者は細形銅剣を所持するだけでなく、柄の端部に取り付ける把頭飾にもこだわりを持ち、銅剣とセットで所有することをステータスシンボルにしていたと考えられます。(豪華なお中元を一緒に埋納しただけです)

銅矛は99本も出土しており、銅剣と同様に西海岸にある遺跡から発見されています。塔の首遺跡(図1-2、上対馬町)、仁位ハロウ遺跡(図1-37、豊玉町)、佐護クビル遺跡(図1-8、上県町)などに代表される石棺墓の棺内に副葬品として銅矛が納められている場合と佐志賀黒島遺跡(豊玉町)などに代表される祭器として数本から数十本の銅矛を一箇所に埋納している場合があります。対馬国では前者の比率が圧倒的に高く、ほとんどの銅矛は、棺内もしくは墓坑に関連した場所から数本単位で発見されています。

このことから対馬の有力者は、銅矛を埋納祭器として用いるのではなく、数本の銅矛をステータスシンボルとして所持していたと考えられます。(注: お中元のうち良いものを一緒に埋葬し、その他、多数を埋納しただけです)

弥生時代後期になると、武器形の青銅器は実用品から祭器化し、大型化する傾向がみられます。銅矛も中細形銅矛から中広形銅矛、さらには広形銅矛と本来の矛としての機能を失っていきます。大型化した銅矛には"邪気を振り払う"や"悪いことを断ち切る"といった意味が込められた祭器のシンボルとして儀式の場で用いられたと考えられます。(注: お中元や歳暮は見かけが派手になる傾向があります)

中国大陸や韓半島へ向けて命がけの航海が求められる対馬の海人(=有力者)たちは、祭器化した広形銅矛を積極的に入手していたものと思われます。対馬国で突出する広形銅矛の数は、中国大陸や韓半島への航海が海を知り尽くした対馬国の海人でも朝鮮海峡を渡ることが難しかったことを物語っているのかもしれません。(注: お中元で大量にもらっただけです。あんなもの幾ら古代でも嬉しくありません)

また、北部九州でも突出した数を誇る対馬の広形銅矛の数は、多くの人々が中国大陸や韓半島を目指し、海を渡っていたことを裏付けています。銅矛には、"航海の無事を祈願する"という想いが込められていたと想定できます。危険を顧みず積極的に海を渡り、中国大陸や韓半島の最先端の文物を入手しようとする弥生人たちが残した銅矛にはステータスシンボルだけではなく、航海の無事を祈るという"御守り"的な意味も含まれていたのかもしれません(注: 銅剣、銅矛、銅鐸、鏡などはステータスシンボルとか御守りと言うより、異民族間の永遠の友好シンボル、お中元の類ではないかと思っている。墓や土中に埋納したら、ステータスシンボルとしても御守りとしても人に見せられない。埋めたら捨てたのと同じ。三角縁神獣鏡なんか大和政権と争った地域の長が墓に入れている。だから倭国大乱を起こさなかった出雲などの山陰文化圏は古墳時代の大和と同族であり、大和政権から何ももらっていない。だから特殊な文化圏と思ってはならない)《一支国博物館資料より》


② wikiによれば、弥生時代までは狩猟と漁撈生活となっており、銅剣や銅矛があるから北九州の文化圏と見なされている。しかし彼らの最先端情報と航海技術から、交換経済は持っており米食は存在すべきであり、魚食と米食の響灘文化圏に元々あった。だから、倭国大乱に巻き込まれること無く、自然に古墳時代の大和文化圏に入れたのである。

北九州は蛋白源を100%魚に頼ることは無く自給自足に近い生活の文化圏であり、銅剣や銅矛に関しては銅資源を中継する対馬に中元としてプレゼントする間柄に過ぎない。

考古学会は鏡や銅製品で世の中を支配できると考えているが、大間違いてす。生存に不可欠な食べ物の依存度で文化圏を判断すべきで、魚食、獣食、塩の需給の比率で判断して欲しい。

(注: ある考古学の学芸員さん曰く政権と庶民は違う行動をする可能性があるとのこと!確かにあり得るが一揆とか革命が起きる可能性もある。争いの歴史が無ければ、政権と庶民の行動は一致していたと考えても間違い無い。宗像大社の大宮司と海人族宗像氏の漁師と長門国と響灘沿岸の百姓はずっと仲が良かった)

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③ 沖ノ島祭祀は海人族安曇氏が行っていた(参考)。沖ノ島のお宝は渡来人からのお中元と考えた方が腑に落ちる。


④ 山東半島あたりから対馬、響灘沿岸から山陰海岸への渡来(参考)。


⑤ 三根遺跡(参考)、邪馬臺国時代の国


⑥ 海女は安曇(あずみ)氏を首長とする部民(べのたみ)として存在し、その後全国各地に広がったとみられ、海部、安曇などの地名を残している。現在の分布は多くの地方にまたがっているが、太平洋岸の岩手、千葉、静岡、三重、徳島、および日本海側の新潟、石川、福井、長崎の諸県に多くみられ、海女の浦と海士の浦とが混在している(コトバンクより)。宗像海女の対馬進出は、700年前、守護代宗氏から認められた(参考)。

すなわち、対馬の漁業権は西暦1300年頃まで安曇氏に独占されていた。