福津市の津屋崎の地名由来が証言する宗像三女神の正体 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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宗像大社のある宗像市の西隣りの福津市津屋崎の地名由来について、当地の波折神社の主祭神の瀬織津姫(瀬織津大神、天照大神荒御魂)にまつわる伝説があった。瀬織津姫は天照大神荒御魂と同一神である他、宗像三女神や玉依姫と同一神であった。


参考

① 津屋崎(つやざき、
参考)

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津屋崎港、福津市

津屋崎(ツヤザキ)の語源は、『市町村名語源辞典』によると、ツエ(崩壊地形を表す語)・サキ(崎)が転じたもので、断崖の岬のことか、渡半島の地形とよく合うとしている。また、あるいは津屋は、文字通り港の施設のことかもしれないと述べている。

『津屋崎風土記』(田中香苗著)では次のように語源三説を紹介しているが、伝説の域をでない。

一つは、同町の産土神、波折神社の縁起によれば、神功皇后が三韓征伐から凱旋されたとき祭神の瀬織津姫大神と志賀大神が鼓島に現れ給うたので、皇后は河原ヶ崎に祠を建てて祭りを行われた。祭祀を終わり皇后が御杖を砂丘にさし、腰をおろしてお休みになった。それで、この地を「杖さし」といい、それが津恵崎となり、後世、津屋崎と称するようになった。

二つは、いつの頃か、河原ヶ崎に木彫りの仏像が漂着したのを浦人が拾い上げ、祠を建て通夜をしてお祭りをしたことから、この地を「通夜崎」といったものが、後に津屋崎と書くようになった。

三つは、いつの世のことか、漁夫三人が沖で釣りをしていたところ嵐にあい、一心に祈ったところ瀬織津姫大神、住吉大神、志賀大神の三神が現れ、大波を鎮め、さらに飲食物をあたえてくれたので、漁夫三人はかろうじて海岸に帰りついた。ふと見ると、船上に三つの石があったのでこの霊石を祀り、波折神と称した。神徳あらたかと遠近の人々が昼夜を分かたず御堂に籠もって祈った。これよりこの地名を「通夜崎」と呼び、後に津屋崎となった。
出典:『福岡県地名考』


波折神社(なみおりじんじゃ、参考)

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福岡県福津市津屋崎町

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波折神社縁起
祭神 瀬織津大神、住吉大神、志賀大神の三座。
縁起によれば、神功皇后が新羅を遠征されて凱旋なさった時に、この三神がこの浦の渡村の鼓島に現れた事から、皇后はこの浦の岡分河原崎の宮之本という地字に神垣を造って斎祀された。


③ 瀬織津姫(瀬織津大神)とは天照大神荒御魂や宗像三女神と同一神である(参考)


④ 天照大神は海人族安曇氏の神であった(参考)


⑤ 天照大神、宗像三女神、玉依姫、瀬織津姫、木花咲耶姫、姫大神は皆、同一神だった(参考)


⑥ 天照大神と卑弥呼は同一(参考)


⑦ 倭迹迹日百襲姫は卑弥呼で、海人族安曇氏が祀っていた(参考)


⑧ 津屋崎港から大島あたりの海人族安曇氏(参考)


⑨ 安曇族の歴史、宮地嶽神社との関係(コピー)
宮地嶽宮司  浄見譲(キヨミユズル)氏の「宮地嶽の神様と安曇族」の講演より、、、

宮地嶽神社は、全国に鎮座する宮地嶽神社の総本宮で、創建は、約1600年前。ご祭神は「神功皇后」(第14代仲哀天皇の后で応神天皇の母君)。

記紀では、渡韓の折この地に滞在され、宮地嶽山頂より大海原を臨みて祭壇を設け、天神地祇を祀り「天命をほう奉じてかの地に渡らん。希(ねがわ)くば開運をた垂れ給え」と祈願され船出したとある。
その後、神功皇后のご功績をたたえ主祭神として奉斎し、随従の勝村・勝頼大神を併せ、「宮地嶽三柱大神」としてお祀りしている。津屋崎に勝浦や勝島の地名があるのは、勝村・勝頼大神の縁である。

中世から戦国末期まで、宗像氏が宗像郡を支配し、宗像大社の末社のような風評が定着している。しかし宗像三女神の存在も記紀にはじめて出てくる神で、田村円澄先生も、神功皇后の渡韓説話の頃より始まると推定されているから、創建は同じ頃であろう。

宮地嶽神社の地には、創建以前に全長23m(日本2位)の巨大石室古墳があり、国宝に指定されたものが20点も発掘され、地下の正倉院と別称されている。特に3mの黄金の太刀やペルシャ風デザインの馬具などの存在は、大きな権力者の存在が覗える。最近復元された太刀が、九州国立博物館に常設展示されている。(3mの太刀については、復元を担当された赤司氏より詳細な説明がされた。)従来この古墳は胸肩君の墓であろうといわれていたが、その後古墳の年代がさらに古いことがわかり、最近元九大の西谷先生はこの説を否定された。このことから、磐井族の葛子の後裔説が強くなり、古賀の船原古墳の馬具出土と関連付けて、津屋崎や糟屋の出土品の再調査がはじまっている。磐井族は有明海に近い八女を本拠地にしているが、有明の大川市の風浪宮の宮司は阿曇姓で、安曇族と磐井族の縁は有明海沿岸でも絆があったようだ。大川の家具が有名だが、もとは舟の造船技術が基礎となって発達したものである。

宮地嶽神社は地区としては宗像郡だが、津屋崎古墳の石の玄武岩は、宗像地区と異なり、相島や志賀島のものと同質だから、志賀島や大岳を発祥の地とする安曇族が宮地嶽まで勢力を広げていたと考えられる。
海人が住むこの地区の海岸線に樹齢2000年の松の木が多いのは、彼らが船の木材、松明、墨、イレズミなどに活用していた名残だろう。イレズミに必要な水銀を求めて、安曇族は山奥まで移住していくことがあった。

宮地嶽神社につたわる筑紫舞の始祖は阿曇磯良翁で、志賀海神社の御祭神を祖にされる方である。その縁で、宮地岳神社宮司の一族から,いまの志賀海神社宮司に養子にはいられた。 


10 宮地嶽神社(参考)


11 筑紫の君磐井は海人族安曇氏の一族(参考)


12 筑後川沿い、大川市の風浪宮は海人族安曇氏の神社(参考)