『韓国TV珍釣行』のメモリー(その4)
毎度です
韓国に到着後の初行動といえば釜山市内の釣具店における「エサの仕入れ」でおましたが、ここでもオッサンが頭に描いていた韓国のイメージと現実ののギャップの大きさに驚かされることになりまっせ
オッサン的には投げ釣りを始めた中坊の時代から「韓国といえば虫エサの主産出国・輸出国」というイメージが強いことから「心配せんでも虫エサはナンボでもあるやろう…」 と安易に考えていましてんわ
ところがでんな、この昔の固定観念が大間違いもエエところで…
1980~90年代に韓国経済が高度成長することで過っては虫エサが豊富に獲れていた海岸線が埋め立てられ、さらに工場廃液や生活排水などによって海洋汚染が進んで虫エサなどの小動物が生息できない環境になっていったと言いまんがな…
そう、ちょうど日本と同じプロセスで海岸線の自然破壊が進み、これまた日本の様に虫エサが獲れなくなってしまい、とくに対大物様にキャスターが好んで使用する「マムシ(イワイソメ)」 や カレイの好餌とされる「コガネムシ(ウチワコガネ)、大キスの好餌である「チロリ(ギボシイソメ)」などは激減して採算ベースで獲れなくなっているとのことでっせ
とくに虫エサの採取が盛んだった黄海側の東海岸~南海岸は早い時期から海岸線の開発が進んで環境破壊が起こったようでんな
逆に現在でも広大な自然が残るであろう北朝鮮の海岸線ではマムシやコガネが豊富に獲れるらしいとのことですが、ご存じの通り当時から現代にかけてもあの気難しい国とは国交も流通も皆無ですから入手は困難ですが、一部は中国を経由して日本へ入ってくることもあるそうでっせ
…それと、昭和40年代には「朝鮮ゴカイ」というネーミングで販売されていたことからでっきり”本場”やとばかりに思っていた「アオイソメ」に関しても天然物の採取量は減っているそうで、メインは養殖物へと移っているみたいで…
従って国内では激減している「マムシ」に至っては中国産の輸入物が主流になりつつあり、中国からの流通量が極端に少ないケースでは日本のエサ輸入業者と引き合いになることもめずらしくはないそうですわ
でっ、このときも中国から輸入されたA3大の薄い段ボール入りのマムシとアオイソメを無事に入手でき、まずは投げ釣りの定番ターゲットである「シロギス」を狙って韓国東南部に広がる海岸線を目指し、一路車を走らせたのでありました
余談ですが、韓国では大物用として日本で流通している「ユムシ」が人間様の食用にされており、チャガルチ市場でもエサには不向きだと思える巨大で肉厚、しかも見るからに硬そうなユムシがアチコチのお店で販売されていましたで
うぅ~ん、ユムシってホンマに旨いんでっしゃろかな・・・
(つづく)
『韓国TV珍釣行』のメモリー(その3)
毎度です
さて、なんとか乗り損ねることも無く搭乗できた大韓航空機は一時間余りで順調に金海国際空港へと到着し、慣れない入国手続きを何とか済ませてホッとひと安心して到着ゲートを出るとそこからは怒涛の如く「驚きの韓国事情」が目白押しで、帰国するまでの間はカルチャーショックを受け続けるオッサンなのでありました
まずは、空港には迷彩模様の戦闘服を着て黒いベレー帽を被った兵士たちが”自動小銃”を手にして鋭い目つきでアチコチに立ち、空港を警護している状況に驚かされまっせ
だって、日本の空港で自衛隊員が武器を持って警護しているなんて状況は余程の事が無い限りおまへんから、オッサンの足りない頭でも「…そうか、この国は休戦中とはいえど未だに戦争中やもんなぁ~…」と何となく納得させましたで
そして空港の到着ゲートを出ると、このロケ釣行でナビゲーター役を務めてくれる
「ミンさん」と合流しますが、このミンさんがまたエライ強面な風貌でっから思わず丁寧敬語で会話する腰が引け気味のオッサンでおます
このミンさんは韓国で有名なDAIWAの磯テスターだそうで、お仕事が建設機械の輸入業を手掛けていることから日本語の会話も達者な上に、細やかなところにまで親身になってお世話をしてくれるホンマに親切なオジサンでおました
…ところが、その親切なオジサンが韓国の方との交渉でコチラの希望が通らない場面になると一変し、眉間にシワを寄せた真っ赤な顔と激しい喧嘩口調の大声で相手を威嚇すかのように交渉されるのですが、どうもこれはミンさんだけではなく韓国流の交渉術みたいな感じでっせ
そう言えば、たしか空港のカウンターや海鮮レストランの店内、韓国三大魚市場であるチャガルチ市場の店頭 でもそんな激しい交渉術を駆使してやり取りをする韓国の人を何度も見かけましたからネ
でっ、とりあえずは釜山市内の釣具店へエサを仕入れに向かいますが、当時の韓国の釣具店といえば店頭や店内にお客さんの目を引くだ出なデコレーションやポップなどはなく、至ってシンプルな店構え・品並べで、イメージ的にはちょうど昭和40年代の日本の釣具店みたいな印象でおましたで
そんでもって、釣具店で驚いたのは当時の韓国には「投げ釣り」というジャンルの釣りが存在せず、従って店内には投げ釣り用のロッド&リールはもとより三脚、天秤オモリ、チカラ糸、果ては投げバリすらも置いていないという極薄の品揃いに愕然とさせられたオッサンでっせ
そしてそして、さらに「驚き・桃ノ木・山椒の木」だったのは… (つづく)
梅田コマ劇場の『E・YAZAWA』
毎度です
「罪なヤツさ、あぁ Pacific …」 という某化粧品会社のCMソングであった『時間よ止まれ』 が大ヒットしてパチンコ店や大阪市内の繁華街にあるショッピングモールでガンガンと流れていたのは、1978年(昭和53年)の初夏~盛夏 にかけての暑い気候の頃でおました
もちろんこの素敵なバラードで落ち着いたシブイ歌声を聴かせてくれたアーティストといえば我らが ”永ちゃん” こと 『矢沢永吉』 で、この曲のシングル盤に収録されていたこれまたイカすバラードの名曲 「チャイナタウン」 と併せて若きオッサンが釣行時にアタリを待つ時間に穂先を監視しながら これらのフェバリットソングをよく口ずさんだもんでっせ
オッサンがティーンエイジャー中盤~後半に聴いていた日本のロックといえば「キャロル ~ 永ちゃん ~ ダウンタウンブギウギバンド」 のツッパリラインにどっぷりとハマり込み、厚生年金ホールやフェスティバルホールで開催されたライブ(当時はコンサートって言ってましたが・・・)にもよく足を運んだものです
それらのライブ会場に集まってくるファンといえば見るからに”イカツイ”連中ばかりで、リーゼントにレイバンのサングラス、顔半分を隠す塗装工用マスクを装着し、紺色やエンジ色の戦闘服に身を包むといった暴走族にしか見えないガラの悪いヤツらが徒党を組んで群がっているのがレギュラーな風景でしたわ
でっ、そんな輩が集まれば必然的に会場の内外で大小の揉め事が生まれ、ついにはそんなトラブルの発生が災いして大きな会場やホールが一時期だけでっけども「永ちゃんのライブ開催を断る」という事態にまでなったことも…
そう、あの「時間よ止まれ」が収録されたアルバム 『ゴールドラッシュ』 の次作である5枚目のアルバム 『キス・ミー・プリーズ』 が発売された時期の大阪ライブでは厚生年金ホールやフェスティバルホールなどに会場オファーを断られ、なんと 美空ひばり や島倉千代子、 森 進一 や 五木ひろし といった演歌歌手がオバちゃん相手にコンサートを開く現在は無き阪急ファイブ横の『梅田コマ劇場』 が永ちゃんのライブ会場になったこともおましてんで
もちろんオッサンも連れと一緒にその梅田コマへと足を運んだクチでっけども、ライブ中盤ともなると「エイちゃ~ん」、「ボケめ、ゴラァ~」、「殺てまうぞォ~」という怒号・罵声が飛び交うカオス状態へと陥り、指定席もクソも関係なく遥か後方の席から前へ、前へと出ようとする暴走族風のヤンキーどもに押されまくって気の弱い上品なオッサン一行はグチャグチャにされた悲しい記憶しか残っていないライブとなってしまいましたわ
…てなことで、オッサンが胸元に「THE MAN E・YAZAWA」 と書かれた黒Tシャツを着て梅田の東通り商店街界隈ウロウロとしていた”40数年前”の遠い、遠ォ~い昔々となった昭和という時代のお話なのでありました
『韓国TV珍釣行』のメモリー(その2)
毎度です
さて、韓国ダイワからのオファーで出演することになった韓国FTVの『Great Fishing』ですが、同時期に出演していたのは関東:伊豆エリアのメジナを釣らせては右に出る者がいない磯釣りの達人「丹羽 正」さん、船釣りで超絶的な技巧を誇った日本初のプロ釣り師である「大塚 貴汪」さん、SWではオフショアジギングのエキスパート「古谷 秀之」さんといった錚々たるメンバーのアングラーたちですやんか…
いま考えるとそんな名人・達人たちの中にコッソリと紛れ込んだオッサン1人だけが十段落ちのランク外選手みたいな存在でっから、まるで水平線に沈みゆく真っ赤な夕日の如く、いまさらながら赤面の上に赤面を重ねる思いのオッサンでっせ
てなことで、お仕事とはいえどオッサンが初めて日本を脱出するために「関西国際空港」へと向かったのは16年も前の 2007 年 9 月 のことでおました
さあ、それまでも旅慣れないオッサンですからパスポートの取得に始まってタックル&荷物の空輸など、ややこしい申請&手続きの連続に心身ともに不安感に苛まれまくりますが、頼りないながらもナンとか全ての段取りを完了することができての出発ですから、ホンマにホッとひと安心ですわ
ところが、なんと出発当日には予想もしていなかった「関西国際空港で”迷子”になる…」という、開いた口が塞がらないようなトラブルが勃発しよります
しかもでんな、そんなトラブルを危惧して予定よりもかなり早く空港に到着しているにも拘らず、アホが余裕をこいて空港内をウロウロした事が仇となってキッチリと迷子になってしまうなんて、我ながらホンマに情けなおますわ…
自分が迷子になったのに気が付いたのは予定の大韓航空機への搭乗時間が迫って南側のゲート付近までいったところで 「なんか違うな・・・」という違和感が膨らみ、近くにいた空港職員のお姉さんに尋ねてみるとオッサンが向かう搭乗ゲートは真逆の北端になると言うやおまへんか・・・
するとお姉さんは 「いまからご案内しますので急いで後ろを着いてきて下さい」と競歩みたいなかなりの速足で空港を縦断されて行がれます
…が、その過程でお姉さんのシューズと床が奏で響く 「カツ、カツ、カツ・・・」という16ビートで刻む高いヒール音と、それに合わせるかのように左右に大きく振れるお姉さんのお尻の動き見事にシンクロして、もォ~う、オッサンの視線は一点集中でまさに釘付けですわ(親切にしてもらっているのにスイマヘンなぁ~・・・)
そんな不謹慎な振る舞いをするオッサンにも拘らず、親切で仕事熱心な空港職員のお姉さんのおかげで乗り遅れに「ぎりぎりセーフ」のタイミングで搭乗予定の大韓航空機へとたどり着き、無事に機中の人になれたのでありました
…ところで、オッサンが感心したのは息せき切って「エライすいまへん、遅れてしもて…」と搭乗ドアから機内へ入ったときに美しいCAと男性パーサーが満面の笑みを浮かべて気持ち良く迎え入れてくれフレンドリーで親切な対応に感激したことに加えて、同時に美味しそうな”キムチの匂い”が微かに漂ってきたことでっせ
さすがはキムチの本場から飛んできた飛行機だけのことはありまんな
てなことで(つづく)ですわ
投げ初心者だった1972年の流行歌 ❤
毎度です
僕が投げ釣りを始めたのは2月に北海道の札幌で「冬季オリンピック」が華々しく開催された1972年(昭和47年)のことで、僕がまだ中学1年生だった頃です
その札幌オリンピックではスキージャンプの日の丸飛行隊のメダルラッシュに感激し、”銀盤の妖精”と言われたフギュアスケートのジャネット・リンがミニスカートの衣装から見せる健康的な太腿に目が釘付けだったこと記憶してまっせ
1972年当時の流行曲といえばデビューしたばかりの 麻丘めぐみの「芽生え」や
仲 正美の 「ポルシュカポーレ」、森田健作の 「友達よ泣くんじゃない」 に始まり、小柳ルミ子の 「瀬戸の花嫁」 や 天地真理の 「ひとりじゃないの」、 南 沙織の 「純潔」、真っ赤なヘソ出しファッションで踊り歌う 山本リンダの「どうにも止まらない」といった曲がTVや商店街、昼休みに流れる中学の校内放送から流れていましたな
でも1972年といえば吉田拓郎を筆頭にしたフォーク・ソングが大流行して、拓郎の「結婚しようよ」や「旅の宿」が大ヒットし、ガロの「学生街の喫茶店」、井上陽水の「夢の中へ」、泉谷しげるの「春夏秋冬」、五輪真弓の「少女」などがTVの歌謡曲ランキング番組で上位に食い込んでましたもんネ
洋楽ではショッキング・ブルーの「ヴィーナス」 や T・REXの「イージー・アクション」、ギルバート・オサイバンの「アローン・アゲイン」 や ステービィー・ワンダーの「迷信」、エルトン・ジョンの「クロコダイル・ロック」、アルバート・ハモンドの「カルフォルニアの青い空」 なんぞがヘビーローテーションでAMやFMのラジオ放送からガンガンと流れてましたで
・・・なので、中学一年生の冬に厚手のセーターの上から土方ジャンパーを羽織り、ジーンズの下にパッチを履き込み、厚い靴下の上から黒いゴム長靴を履き、スッポリと耳が隠れる毛糸の帽子を被って北河内の大東市から電車を乗り継いで遥か離れた泉南エリアの釣り場へと赴き、吹き荒ぶ北西の強い寒風に震え耐えながら沖に白兎が飛び跳ねる荒れた冬の海へ向かってDAIWAの「スポーツ№2」を装着した「いそかぜ360H」をフルスイング(…といってもせいぜい 40~50mほどの飛距離でっしゃろが…)して、上記した和洋の流行歌のメロディーを口ずさみながらアタリを待っていた若き少年時代のオッサンなのでありました
そのせいか、いまだに1972~1974年辺りの流行曲を聴くと半世紀も前の泉南・箱作や淡輪ヨットハーバー波止、谷川・豊国崎の小波止の沖で狂ったように跳ねる波と前方から吹き襲ってくる冷たい北風を感じてしまうオッサンでっせ