大和6号墳、鉄の副葬 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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古墳時代7世紀前半頃まで、鉄は富の象徴であり宗像の祭祀遺跡にもあった。鉄資源については、朝鮮半島の伽耶からの輸入と中国地方などでの国内生産の二つの説に分かれているが、5世紀には国内生産が確実な行われていたようだ。また、弥生時代からすでに国内生産していたとする説も有力になりつつある。


参考

①古墳から出土する特殊な副葬品として、鉄テイと呼ぶものがあります。昨年の夢通信で紹介した宮山古墳からも数枚出土しています。これはバチ形の鉄の延べ板で、奈良県ウワナベ古墳陪塚(ばいちょう)の大和6号墳から大小872枚も出土しています。大形品は長さ30~40cm、小形品は長さ16cm前後です。鉄テイは主として武器・武具など鉄製品の素材として朝鮮半島から輸入(移入)したものです。近年の発掘調査で伽耶(かや)地域(朝鮮半島南部)の古墳からたくさん出土し、鉄の王国と呼ばれた伽耶からもたらされた可能性が強い。素材である鉄テイそのものが副葬されたのは、それ自体が富の象徴、ひいては権威の象徴と考えられたからでしょう。

それではいつ頃から国内で鉄を作るようになったのでしょう。日本書紀に興味深い記事があります。大化改新前夜、642(皇極元)年4月の蘇我蝦夷(そがのえみし)が、百済の使者を自宅に呼び、馬および鉄テイを与えた。これ以前に朝鮮半島から鉄素材である鉄テイを輸入(移入)したという記事がかなりありますので、これは逆さます。まずは畿内あるいは畿内の周辺地において、鉄の生産が行なわれるようになった証拠です。そして、蘇我蝦夷が大量の鉄をかなり自由に扱えたということです。その鉄産地は近江か播磨ではないかと考えています。しかし、これ以前に日本の中で鉄の生産が行なわれていなかった、という訳ではなく、あくまで文献上の証拠です。この記事は恐らく、畿内周辺でもこんな立派な鉄が作れるようになったぞということを、これまで鉄テイを輸入(移入)してきた技術的な先進地である朝鮮の使者に、誇りをもって与えたのでしょう。大化改新前後のこの時期は、国際的にも国内的にも、戦時体制的な要素をはらみ畿内を中心とする鉄生産がかなり急速に発達しました(参考)。

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②古墳時代(西暦300~600年)の遺跡から鉄製 の刀や斧などが出土していますが、その中の斧の分析結果から炭素や珪素を含んだ鋳鉄製であることが判明し、日本で作られた最も初期の鉄鋳物であると推定されています。また、この時代は大陸から原料の地金を輸入し、溶解鋳造していたようです。 

鉱石からの精錬については、福岡の太宰府で1600年前の製鉄炉跡が発掘されています。これは山の斜面に穴を掘り、底に木炭の粉と石英を練り合わせたものを詰め、その上に木炭と砂鉄を積み重ね、土を被せて点火し、自然通風で精錬したものと推定されています。この炉は弥生後期から古墳時代の製鉄跡と考えられています。

また、この時代は大和朝廷が全国の権力基盤を強化し た時期であり、日本の鉄の歴史に重要な時期であったと考えられています。それは全国各地に同じような古墳が数多く建設されたこと、また、同じような古墳が出土していること、さらに、鉄製武器などの副葬品が増加していることから伺えます。応神陵古墳や、仁徳陵古墳のように巨大な古墳などの土木工事ができた最大の背景は「鉄」であったと考えられています。 

なお、このような鉄資材は朝鮮から輸入されたとする意見と、吉備、出雲から運ばれたとする意見に別れているようです。 古墳後期になると、日本書紀や古今和歌集などの記事から、鉄生産時の送風技術がこれまでの自然通風から人工的な送風に進歩しています(参考)。


③鉄の道具が大陸から伝わったのは弥生時代のことです。古墳時代後期には国内で鉄の生産が始まり、島根では邑南町と雲南市掛合(かけや)町でこの時代の製鉄遺跡が発見されています。この段階の製鉄炉は一辺が50センチほどの小さなものでした。天平5(733)年に編纂(へんさん)された『出雲国風土記』には、仁多郡の三處郷(みところのさと)、布勢郷、三澤郷、横田郷について「以上の諸(もろもろ)の郷より出す所の鉄(まがね)、堅くして、雑具(くさぐさのもの)を造るに堪(た)ふ」との記載があります(参考)。


‘多々良’とは、秦氏などの渡来人によって伝来した精銅、製鉄の技法で、「鉄」や「銅」の類だけではなく「陶器」などの焼き物=土器=瀬戸物も作り出す、焼き物の‘かま’の原型であり、火を起こす‘ふいご’が原点である。

たたら製鉄は、粘土でつくった箱の形をした低い炉に、原料の砂鉄と還元のための木炭を入れて、風を送り、鉄を取り出す日本古来からの鉄を作る技術である。6世紀後半(古墳時代後期)に朝鮮半島から伝来したとある(参考)。

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確実と思われる製鉄遺跡は6世紀前半まで溯れますが(広島県カナクロ谷遺跡、戸の丸山遺跡、島根県今佐屋山遺跡など)、5世紀半ばに広島県庄原市の大成遺跡で大規模な鍛冶集団が成立していたこと、6世紀後半の遠所遺跡(京都府丹後半島)では多数の製鉄、鍛冶炉からなるコンビナートが形成されていたことなどを見ますと、5世紀には既に製鉄が始まっていたと考えるのが妥当と思われます。

一方で、弥生時代に製鉄はあったとする根強い意見もあります。それは、製鉄炉の発見はないものの、次のような考古学的背景を重視するからです。
)弥生時代中期以降急速に石器は姿を消し、鉄器が全国に普及する。
2)ドイツ、イギリスなどの外国では鉄器の使用と製鉄は同時期である。
3)弥生時代にガラス製作技術があり、1400~1500℃の高温度が得られていた。
4)弥生時代後期(2~3世紀)には大型銅鐸が鋳造され、東アジアで屈指の優れた冶金技術をもっていた。

最近発掘された広島県三原市の小丸遺跡は3世紀、すなわち弥生時代後期の製鉄遺跡ではないかとマスコミに騒がれました。そのほかにも広島県の京野遺跡(千代田町)、西本6号遺跡(東広島市)など弥生時代から古墳時代にかけての製鉄址ではないかといわれるものも発掘されています。

弥生時代末期の鉄器の普及と、その供給源の間の不合理な時間的ギャップを説明するため、当時すべての鉄原料は朝鮮半島に依存していたという説が今までは主流でした。しかし、これらの遺跡の発見により、いよいよ新しい古代製鉄のページが開かれるかもしれません(
参考)。