穴門から長門へ | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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山口県の西半分は長門国であった。さらに古くは穴門国と呼ばれたが、665年頃、突然に長門国名称を変えた。穴門国の語源でもある関門海峡付近に火山(ひのやま)が今でもある。

当時、安芸国(広島県の西部)に長門島(万葉集の736年の歌に現れる)があり、島の中央に火山(ひやま)があった。この長門島と言う名称は消え去り、現在は倉橋島と呼ばれている。この島は遣唐使や遣新羅使の船旅の中継地であり、船の建造地でもあった。

白村江の戦いの敗戦以降、よく知られた穴門(アナト)を隠すため、よく似た地勢、港の役割、発音の長門(ナガト)にしたのであろうか?

長門国大津郡(現山口県長門市)に万葉集に歌われる「淡海の海」を発見した。現在の滋賀県の近江、大津市と混同されている。これは712年完成の古事記で滋賀県に近江、大津の地名を命名した。

日本書紀の668年の蒲生野猟遊の記事、万葉集1-20の額田王の歌は現山口県下関市大字蒲生野であったが、日本書紀、万葉集の中では現在の滋賀県に移された!

ちなみに、倉橋の名前は奈良県桜井市に倉橋があり、明日香村や朝倉が近くにあるが、関連は不明である。


参考

① 万葉集遺跡長門島松原

『万葉集』巻十五に天平8年(736)遣新羅使(けんしらぎし)の「安芸国長門島船泊磯辺作歌」5首と「従長門浦舶出之夜仰観月光作歌」3首が記載されており、その船泊の地が現倉橋町桂浜であるとされて、昭和19年(1944)県史跡に指定された。

指定面積は約1ヘクタール、昔ながらの美しい砂浜に約500本に上る松原が続く風景は
 わが命を長門の島の小松原
 幾代を経てか神(かむ)さびわたる
などと歌われた歌意にかなう景勝の地。

区域内には「万葉集長門島之碑」(歌碑)や、戦時中の食糧難に寄与したといわれる「もずくの碑」、桂浜神社の大鳥居などがある。

倉橋島の古名が長門島であったことは、尾立の八剣(やつるぎ)神社の文明(ぶんめい)12年(1480)の棟札に「長門島」と記されていたことや、長門崎、長門口の地名があることから分かった。この島は古くから造船の島として有名で、推古(すいこ)天皇の代から奈良時代へかけて幾たびとなく外国使節団用の船を造った記録がある(参考)。


② 遣唐使船建造修理の島「長門ノ津」

「風早ノ浦」を出た船団は安芸灘を女猫の瀬戸へ。上蒲刈・下蒲刈両島を左舷側に過ごして倉橋島の東沖を南下し、鹿島を迂回して倉橋島の「長門ノ津」に入ったであろう。「長門ノ津」は古くから拓けた瀬戸内有数の津で、遣唐使船の新造や修理もここで行われたという。第十六次遣唐使船は前年の夏「難波ノ津」を出航したものの瀬戸内の悪天候で航行不能になり、船体の修理のために1年延期になった。その修理はここで行われたという話もある。

天平8年(736)、遣新羅大使阿倍継麻呂の一行が「風早ノ浦」を出て長門島の磯辺に停泊し、翌日、周防の「麻里布(岩国)」に向ったという。その時に詠んだ歌が「万葉集」にあり、その歌碑が今倉橋島の桂浜の白砂の上に建っている(「万葉集遺跡・長門島松原の石碑」)。

日本書記、続日本紀に諸国に遣唐使船の造船を命じる記述が見え、9回のうちの7回が安芸国になっている。おそらく遣唐使船の建造は安芸がこれを専門とし、他国で行われたのは何かの事由で例外的であっただろう。古資料に安芸国内に3ヶ所の「船木郷」が見える。1国に3ヶ所も「船木郷」が存在する国はほかになく、安芸が造船の用材を豊かに産出する国であったことが推定できる。さらに安芸は山林での用材の育成と伐採、そして運搬と製材、さらに建造と、すべての工程が国内でまかなえる。朝廷はこの安芸に造船を奨励した形跡がある。隣国である備中・備後・周防では製鉄や塩田がさかんに行われたのであるが安芸にはそれらがなく、その代り造船では他国を寄せつけなかった。律令国家の国策ではなかったか(参考)。

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倉橋島、旧長門島


③ 火山(ひやま)

標高408m、広島県の最南端・倉橋島の中央部に位置する山。この山は昔、瀬戸内海の船の要所であったため、山頂で火を焚き、灯台の役目を果たしていたため「火山(ひやま)」と呼ばれています。頂上には大岩があり、その上に立つと360度の展望が開き、瀬戸内海に浮かぶ島々をはじめ遠くは四国山脈の山々も見渡すことができる絶景スポットです(参考)。

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火山は右上に見える

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火山から倉橋町(旧長門浦)


④ 古来から造船,海運の盛んな島として,また島の入江が良港として早くから栄えてきた。さらに百済からの渡来人が住み着き、造船の技術を伝え、遣唐使船などの建造も行なわれてきた。奈良時代には既に瀬戸内海交通の要衝であった。 飛鳥時代、新羅に攻められた百済から船大工が倉橋島へ渡来し、造船の技術を伝えたと言われている。

663年唐と新羅連合軍に倭国と百済連合軍(倭国軍 42,000人、倭国船舶 800余隻、百済軍 5,000人)が白村江の戦いにて敗れると、多くの百済人が我が国へ渡来した。ここ倉橋島にも百済人が住み着き造船や船の修理が盛んになった(参考)。


⑤ 長門国(ながとのくに)

665年までに穴門国から長門国に改名された。『和名抄』では、「奈加度(なかと)」と訓じます。

「長い谷のあるところ」、「ナゴ(海のなごやかなところ。またはナギの転で崖地)・ツ(港)」の意とする説があります(参考)。

厚狭(あつさ)、豊浦(とよら)、美祢(みね)、大津、阿武(あむ)の5郡からなる(コトバンクより)。

穴門の語源となった関門海峡の“火の山”の名は、かつて山頂に敵の襲来を都に知らせるための狼煙台が設けられていたことに由来する。

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火の山(関門海峡、すなわち穴門を見下ろす)


⑥ 倉橋島の鹿老渡(かろうと)

島の南端にある町、鹿老渡(かろうと)は,沖乗り航路が盛んになった1730年(享保15)に開設された港町である(コトバンクより)。町としては新しいが、地名のカロウトは元々は唐人であろう。すなわち、渡来人の地であった。これは関門海峡沿いの火の山の隣りにある唐櫃山(カロウトヤマ、唐人山の転化)と同じ意味であろう(wikiより)。

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赤点が鹿老渡(カロウト、参考)

下関の関門海峡の大唐櫃山(おおかろうとやま)・小唐櫃山(こかろうとやま)は下関市豊浦村にあり、標高141.1mと低い山であるが、関門海峡に隣接して海峡の監視に適している。




⑧ 用明天皇~崇峻天皇(587年~592年)の倉梯宮(倉梯柴垣宮)が奈良県桜井市倉橋にあった(参考)。


⑨ 万葉集に「長門なる沖つ借島」(6-1024)、「績麻(うみを)なす長門の浦」(13-3243)、「わが命長門の島」(15-3621)と長門を題とした歌が三首あるが、最初の歌を除いた、後の二首は安芸国の長門島の歌とも言われている。時期が重なっており、誤解されている。