すずきふみよしの「星の音を聴く」 -2ページ目

すずきふみよしの「星の音を聴く」

読むこととはすなわち聴くこと。耳を傾けること。
ホロスコープから「聴いた」ものを、そして感じとったものを、日々丹念に言葉にしていきます。

[太陽]
乙女17度「火山噴火」
キーノート「長期にわたって抑制された無意識の内容物の爆発的なエネルギー」

最も基礎的な術語においてリアリティを構成する自己と自然の絶え間ない拡張のシンボルであり、ここでは存在し続けようとする生の物理的身体的な力と盲目的な衝動の側面が強調されている。驚きと破壊性とは自身の体験の批判的な相における人間の最も容易な自己発見であるということが含意されており、またそれはしばしば人がなんらかの大きな問題に向きあおうと行動を起こす際のまったくの暴力によって支えられている。人の抗い難い突発的な爆発とはただ単に自身の深い潜在力の全体的な動員にすぎないのかもしれない。

キーワード:EXPLOSION(爆発、破裂、噴火、急増)
ポジ:皮相的なものへの拒絶と自身の本当の秩序化としての創造的情熱
ネガ:苛立ちおよび癇癪

[月]
魚17度「復活祭のパレード」
キーノート「優秀さの発揮において共同体の人々を結びつける、あらゆる社会文化的なイメージに固有の受容能力」

意識レベルにおいてリアリティを特徴づける自己と体験の絶え間ない拡張のシンボルであり、ここでは人間性のまったくの個人主義的な自己表現の側面が強調されている。人間の虚栄心と自己顕示のあらゆる馬鹿馬鹿しい極端さは、個人的な美点のそれぞれの最小限の表明は発達の基本条件として広く好意的に共有されるべきだということを実現するものなのだということが含意されている。人間社会とは人が自分自身を満足の行くように劇化できる限りにおいてのみ存在するのである。

キーワード:CELEBRATION(称賛、賛美、祝賀、祝典)
ポジ:他者への効果的な創造的刺激における飽くなき自己洗練
ネガ:注意を惹くことへの異常なまでの渇望

両者の冒頭で共通しているのが〈絶え間ない拡張〉ということ。前者は自己と自然の、後者は自己と体験のという違いが現れているが、前者は私と私をとり巻く世界とにフォーカスされていて、後者はかなり個人性に重点が置かれている。とは言え魚ともなればそれは単なる利己ではなく利他としての個人的な体験に視線が向けられているはずなのだが、厄介なことに自己顕示の色あいが強いものとなっている。しかもそれが個人性を示す月の度数なのだからさらに難儀な話だ。

自分の内面の充実を図ろうとする一方で、それはいやらしくも浅ましい虚栄になりがちであり、そしてソーシャルな側面ではともすればかなり粗暴な爆発的噴出となって表れやすいというのが今回の満月の示すところである。太陽のほう、乙女17度が示しているものは、キーノートにあるとおり長期間抑圧されてきたものの爆発的な顕在化だ。長年懸案だった課題がかなり極端で危機的なかたちで突出して顕になったり、積年の恨みつらみなどが非常にまずい具合に噴き上がったりしやすいときであると言える。

ここで表面化するにいたったことがらはかなり根深いものであるのは間違いなく、抜本的な解決に向けて腰を据えてとり組む必要があるだろう。自分の満足を大切にするのは構わないが、それに人を巻き込んでいるのだという意識は忘れずに。うわべだけ事態を収拾させようとするのではなく、見えてきた問題に深い根本的なレベルで関わること。それをこの半月のテーマとしていただきたい。
[太陽]
獅子19度「ハウスボートでのパーティー」
キーノート「厳密に構造化された社会的振る舞いからの一時的な自由を楽しむこと」

効果的な努力への前奏曲としての創造的なリラクセーションの、また仲間との協同的な関係の日々の稽古を通じての達成への人間の通常の受容力のシンボルである。広く世界への貢献を実行し得る技能とインスピレーションとの強化された文化への、生のある種の心地よいポケットの密封がここにはある。存在のどんなに冴えないルーティーンも自己出費のありふれた投機として高められるであろう。

キーワード:CONGENIALITY(合致、相性、共鳴、適応)
ポジ:人間に関する諸事のよりやりがいのあるもしくは永続的な側面へ参与したいという風流な熱望
ネガ:一般の福祉への思慮のない自己耽溺および軽蔑

[月]
水瓶19度「水と化学薬品と途方もない筋力を用いて山火事が鎮火されつつある」
キーノート「カルマの〈訪れ〉の不注意の破壊的な潜在性を制圧するために必要な技能と勇気」

尋常でない努力を変更し修正する再生的なリラクセーションの、また有事の際の自分自身の全身的献身を通じた達成への例外的な受容力のシンボルである。ここにはそれによって個人が自己出費の高度な頂点を得るダイナミックな協同があり、またその瞬間の強化においてほかのやり方では決して発見することのない潜在力を稽古づける。不運にも被り得ることが同様にたやすく首尾よい投機に、幅広い社会的責任においてなり得るのである。

キーワード:CONCERN(関心事、心配、懸念、気遣い)
ポジ:個人的な興味を有効性のなんらかのより大きなポイントへともたらす特別な技能
ネガ:経験の恐れおよび厄災のほのかな喜び

両者の冒頭で主題とも言えるかたちで提示されているのがリラクセーション。公的にはソーシャルな側面で効果的にものごとを達成するうえでの前段として楽しむ格好で、私的には自分の内面のプロセスに軌道修正を加えるような営みとしてくつろぎの必要が述べられている。

前者獅子19度のほうにはキーノートにもあるように制度からの一時離脱の意味あいも含まれており、お盆休みの束の間の休息としてはもちろん最適なときだと言える。が、その一方で相当に苛烈とも言えるような内省の必要性が後者水瓶19度によって示されているのではなかろうか。くつろぎとはいえ、やはりシンボルどおりかなり強い力によって自分の内面に変化を与える努力がいまは必要なのだと、この満月は述べているようにおもわれる。

積極的な人間関係から撤退するというわけではなく、関係に身を置きながらも、そのなかで自身の内面の変革にフォーカスするということ。そこには労力が、対価が支払われてしかるべきであるということ。社交を通じて自分の成長を求めるという方向に、この先半月のテーマを置いてみるとよいだろう。よかれとおもってやることが相手不在の自己満足とならないように、またトラブルが生じることをうっすら期待して楽しんだりすることのないように。
小保方晴子に更なる新事実…STAP細胞捏造疑惑どころか思い込みの激しい性格など人格まで問われる事態に…行方不明ではないが現在は雲隠れ中【割烹着画像/2ch】 - AKB48まとめもりー|2ちゃんねるまとめブログ

「東邦大東邦の同級生によると、彼女は思い込みが激しく、好きな男子と付きあってもいないのに付きあっていると言いふらした『不思議ちゃん』」おしゃべりな同級生をもつとろくなことないなぁとおもうが、この人にこうした虚言傾向があるということはたしかなようだ。

STAP細胞騒動を受けての、理系ざまあと高笑いの文系からの発言や、これだから女はと冷笑する男とりわけおっさんの発言を目にすると、そういうものの言い方は文系や男とりわけおっさんすべてを下品に貶めるものに感じられるのでやめてもらいたいものだとおもう。事実に正しく目を向けたい。

しかしながら、小保方さんは男社会のなかでおっさんどもに虐げられながらも研究を続けてきてこのように結果を出したのだと、彼女の背景の物語を過剰に喧伝しては自身の想いを投影してきた女性たちは、現在のこの状況をどうとらえているのだろう。果たして正しく見てとることができているだろうか。

小保方晴子さん、1983年6月29日千葉県松戸市生まれ。蟹7度「月明かりの下で踊る二つの自然霊」キーノートは「生命のあらゆる顕現における不可視の力の働き」見えないものに関心を払いながらその具現化物質化に自身の創造性を傾ける度数である。不可視のものを可視化していく能力のもち主。

さまざまな生命の活動の現れの背後に見えない力が働いている。それに気づくということ。未知の領域を探求していく科学者として大変素晴らしい資質であり、適性としては申し分ないことが太陽の度数からわかる。しかし不可視の可視化、創造的な具現化の過程において捏造があってはならないはずである。

ジョーンズが述べるこの度数のポジティブな側面は「変容する感受性あるいはヒーリング・イマジネーション」万物とりわけ生命現象の背後にある自然の無限の可能性を指し示すことによって、人間に身体的物理的ないしは心理的にも解放を与える力をもち得るということ。それが癒やしにもなり得るのだろう。

ジョーンズが述べるこの度数のネガティブな側面は「つくりごとへの無意味で無分別で愚かしい隠退」フィクションの世界へと現実逃避的に引きこもってしまう傾向がネガティブな方向の可能性として示されている。そのように自分を守り癒やさなければならない事情が、彼女にはなにかあるのかもしれない。

占星術は人を断罪するための術として開発され発展してきたわけではないが、やり方次第ではそのようにも使うことができる。すべては使用者の心もちであるのだから、どのように使うかについて美と倫理が必要となるのだと、私は同じことを繰り返し述べるばかりです。

人間について知りたいとおもう、もっと理解したいと願う。そうしたごく素朴で単純な欲求を満たすうえで、占星術は大変有効な力となり得ます。しかしその力はどのように使われるべきなのか。力を手にする、学ぶということは、そこまでを視野に入れなければなりません。そしてまたそれは教えるということにおいても同様です。

と一席ぶちあげたうえで【お知らせ】すずきふみよしサビアン占星術講座がいよいよはじまります。占術スクールカイロンにてプレ講座1回および本講座24回の気宇壮大な企画。これを機会にぜひホンモノに触れてみてください。覚悟を決めて。ね。詳細はこちら
筆者の個人的な都合により「きょうの太陽から」はしばらくお休みさせていただきます。
長らくご愛読ありがとうございました。
サビアンシンボルは
山羊座18度「イギリスの軍艦からはためくユニオンジャック」

このシンボルのキーノート(基調)は
「秩序維持をあずかる強力な制度によって個人と集団へ提供される保護」

きょうはどんな日?
肉体礼賛の発展として自身の心身の管理を志向し、またそれを通じて権力のあり方についてじゅうぶんな考察を重ね実際の運用も視野に入れたいときです。

精神的な抑圧からの解放やものごとの本質を求めその手段として肉体の礼賛や身体性の復権に向かっていくときというのがきのうでした。発達段階において重要である肉体礼賛とは趣を異にする、お行儀よく方向づけられた遊びへのカウンターとしての肉体礼賛がある。社会的行動の偽善や緊縮を克服する手段を求めるべく体の健全な自由を求めていこうという具合でしたが、存分に体は使えたでしょうか。きょうは力の使い方についてかんがえてみましょう。

現象的には同じであっても精神的な面ではまったく対照的な相貌を見せていたおとといきのうですが、きょうはそれらが統合されることになります。肉体礼賛はそのままに精神面ではここでまたあらためて管理志向が強まります。知性とのバランスを求めるうえでの肉体礼賛は純粋な肉体の力の追求に転化し、抑圧からの解放を求めての肉体礼賛は抑圧的な力へと反動的に変容します。管理の対象はまずは言うまでもなく自分自身の心身であり、ここでは大変強力なセルフコントロールが示されていますが、同時にそれが社会全体へと及び敷衍していくのが山羊というサインの大きな特徴です。シンボルに描かれているのは大英帝国艦隊が海洋の自由の国際的原則の下で世界の海の治安を仕切っていた過去の一時代の様子です。時は過ぎ変わってもその概念が残り続けていて妥当とされていることを、私たちは今日の国際社会を眺めるに理解できるでしょう。力とは、つまり権力とは、国際関係を維持するのと同じように、社会の秩序と相対的に平和な対人関係とを維持するべく必要とされるのです。この力は実に容易に「法と秩序」を守るという名目において誤用され得るものです。したがって正義と同情とが社会的権力を、とりわけ特権的な集団のそれを相殺するように働くべきなのです。このシンボルは自分の心身の管理やそれを通じて集団や社会全体の管理を志向するばかりでなく、権力の利己的な行使に対して警鐘を鳴らすという側面ももっています。おとといときのうの統合とはいえ二律背反を含んだ様相ですが、ここでしっかりと自己修復能力を発揮しているとも言えるでしょう。いたずらに権力を発動するのではなくそれについてみずからが懐疑し修正を加えていくことにより、それは本当に良好な人間関係を維持するために人々を保護してくれる力ともなり得るのです。そしてこれが「仕組みや制度が理想的に整えられた社会や組織にあって人間が生き生きと生きるということを実際に行動で示していく」ことなのです。しかしながらその一方でうぬぼれの強い独善的で自己満足のあるいは強引なパターナリズム傾向が見られるときでもあります。なにをどうしてもそう解釈されることは免れないのかもしれませんが、悪評を飲み込む度量も欲しいところです。
サビアンシンボルは
山羊座17度「抑圧された女性がヌーディズムに心理的な解放を見い出す」

このシンボルのキーノート(基調)は
「社会的抑制の束縛からの脱出と身体知への信頼」

きょうはどんな日?
精神的な抑圧からの解放やものごとの本質を求めその手段として肉体の礼賛や身体性の復権に向かっていくときです。

心身のバランスをとり健康を維持するために肉体の礼賛に向かい、またそれを通じて社会性を意識した他者との協同を図りたいときというのがきのうでした。知的な学習と肉体的な活動とのバランスのとれた結合が、人間の人格の調和のとれた発達に必要である。存分に体を使うと同時に人と競うことによって攻撃性が昇華され社会化されていくことが人間の発達において大変重要であるとわかるだろうという具合でしたが、それを実際に行動に表せたでしょうか。きょうは現象的にはきのうと同様ですが精神面が反転します。

きのうの肉体礼賛はとりわけ発達段階において重要であり、また競うというかたちではあれ他者との協同を志向する点で社会性を強く意識したものでした。逆を言えば、それが社会の要請であるのだとも説明することができます。しかし社会の諸制度や文化はそのように人間の攻撃性を方向づけ回収していくことで、しばしばそれ自体が硬直化し人間を圧迫しはじめるようにもなります。山羊の季節の前半の〈結晶化〉は自己修復能力をはらんで帰結しましたが、それが十全に機能しない場合が往々にしてあることを私たちはよく知っているはずです。魂と肉体との鋭利で不健康な分割を生み出してきた宗教の抑圧下で、社会は自然の本能に基づく遊びを考慮に入れた価値の厳格な体系をつくり出してきました。そしてそれを〈上品〉で〈慎ましい〉ものとして称揚さえしてきたのです。お行儀よく方向づけられた遊びへのカウンターがきょうは噴出することになります。シンボルに描かれているのは束縛から逃れようと試みる女性の姿です。言うまでもなくこれはポルノグラフィックな肉体の露出や顕示とはまったく関係なく、抑圧的で神経症を引き起こすような過去のピューリタニズムへの喜ばしい抵抗なのです。男性も女性も肉体的同様に心理的に体の健全な自由を手に入れたいと欲しているはずです。そしてその体こそが社会的行動の偽善や緊縮を克服する手段となり得るのです。健康そのものである体操着姿の男子女子とは対照的に抑圧からの解放の方法としての身体性の復権がここに示されています。こそこそとした小ずるさや逆に常軌を逸した奇矯さや突飛さが現れる傾向が見られるときでもあります。少なくとも体はしっかり使っておきましょう。
サビアンシンボルは
山羊座16度「体操着姿の男子女子でいっぱいの校庭」

このシンボルのキーノート(基調)は
「とりわけ思春期における身体的活動と競技の必要性」

きょうはどんな日?
心身のバランスをとり健康を維持するために肉体の礼賛に向かい、またそれを通じて社会性を意識した他者との協同を図りたいときです。

理想的な社会の形態の一つとしての将来を見据えた持続可能な福祉社会のビジョンについて、個人の責務としてかんがえておきたいときというのがきのうでした。過去に対してと同じように未来に対しても目を向ける必要があり、この先の社会を実際に担っていくことになる子どもたちのために社会の仕組みを用意しなければならない。それが真に成熟した豊かな社会が果たすべき責務だからだという具合でしたが、多少なりともかんがえることはできたでしょうか。きょうは頭より体を使いましょう。

理念や理想の、「あり得べき姿」の本格的な具体化。すなわち射手の期間に純化された精神の結晶化はきのうで一定の帰結を見ましたが、これは抽象思考に具体性を与える、精神に物質を、肉体を与えるプロセスであったと言うことができます。それが自己検証ののちに未来志向のなかに自己修復能力をはらむという様相を呈したわけですが、ここで山羊というサインは大きく物質性へと、肉体性・身体性・即物性へと傾斜することになります。私たちの社会は知的な学習と肉体的な活動とのバランスのとれた結合が人間の人格の調和のとれた発達に必要であることを経験的によく知っています。しかし大人というものは往々にしてお金稼ぎやその他のやるべき務めの圧力の下でそのことを忘れてしまいがちです。きょうのこのシンボルはそれをおもい起こさせてくれるものなのです。シンボルに描かれているのはまさに体を使って運動する子どもたちの様子です。昨今の日本の小学校では徒競走で順位をつけることにクレームをつける親がいたり、あるいはそれを受けてやめてしまう学校さえあるとききますが、ここで示されているのは競うことの大切さです。体を使うこと、肉体の礼賛と同時に競技を通じて攻撃性が昇華され社会化されていくことが人間の発達において大変重要であるのだということを、このシンボルはあらためて教えてくれます。同時に私たちは普段健康を保つためにどれほど肉体上の刺激に依存しているかが理解できることでしょう。きょうはそれを再認識したうえで存分に体を使ってみてください。まったく想像力に乏しい形式張った慣例やしきたりに囚われて自分自身を裏切ることになってしまう傾向が見られるときでもあります。競技にルールは必須ですがなんのために競うのか本末転倒にならないように注意しましょう。

山羊の季節の後半、この先半月のテーマは〈集団パフォーマンス〉です。理念や理想の具体化は一応は達成され一定の帰結を見ましたが、そうして生み出された社会や組織のなかで人々はどのように集団として行動していくべきなのか、それを実践していくことが課題となってきます。つまり理想とされる行動を具体化するということです。器があってもものが入っていなければそれは虚ろと呼びますが、仕組みや制度が理想的に整えられた社会や組織にあって人間が生き生きと生きるということを実際に行動で示していくことが、この先求められることになります。個々人がそのように生きていくことを社会総体の意志として示すプロセスであるとも言えるでしょう。個人性と社会性との連結・連動がいよいよ密接にそして不可分のものとして発達していくことになります。心をしっかりもちましょう。
サビアンシンボルは
山羊座15度「病院のなか、小児病棟がおもちゃでいっぱいになっている」

このシンボルのキーノート(基調)は
「新しい世代の福祉と全体の健康を保証する社会の責任」

きょうはどんな日?
理想的な社会の形態の一つとしての将来を見据えた持続可能な福祉社会のビジョンについて、個人の責務としてかんがえておきたいときです。

正当な根拠をもつ歴史的な眺望に基づいた鋭く透徹した勇気ある洞察力が求められ、国家や集団の歴史と同様に個人の人生の過去についての大きな見直しが必要とされるときというのがきのうでした。根本的に普遍だと信じられているものの普遍妥当性をいま一度見直してみる。通常これは伝統的で〈正しい〉のだと信じているような文化や慣例的な習俗が、本当に正しいものであるのかどうかいったん疑ってかかってみる。そうした作業のなか文化の所産を歴史的に眺望してみた際にそのなかに自分の思考がすでに先どりされていることにも気づくだろうという具合でしたが、あれこれと見直しはできたでしょうか。

自分がかんがえてきたことややってきたこと、つくり上げたものなどを振り返ってみる。また既存の伝統的文化や社会の諸制度についても同様に見直す。こうした普遍妥当性の検証の目的はとりも直さず、それらが持続可能であるものか、永らえるに値するものかを確認することにあります。射手の期間に純化された精神が結晶というかたちとなって具体性を帯び物質化する、「あり得べき姿」の本格的な具体化のためにそれが必須だからです。そしてまた社会文化的なプロセスは過去に対してと同じように未来に対しても目を向ける必要があります。持続可能である社会をつくるということはもちろん未来志向でありますが、それを実際に担っていくことになるのは現在まだ若く幼い子どもたちなのですから、それら社会の仕組みはなによりも彼らのためであるべきことは当然でしょう。シンボルに描かれているのは子どもたちへの養育的な施設の様子です。なんらかの病気を抱えてそこにいる子どもたちを治療していくうえでは、ただ単に病気の治療のみが求められるわけではありません。人間として健康な子どもたちと同様に得られるべき喜びや楽しみも、そこには用意される必要があります。それが真に成熟した豊かな社会が果たすべき責務だからです。山羊の季節の前半のテーマの〈結晶化〉はこのようにして、自己検証ののちに未来志向のなかに自己修復能力をはらみながら一定の具体的なかたちへと帰結します。結晶というものは物質として非常に安定した状態ですが、社会の仕組みとしてはこうして動的な変動性を内包していることが強固に安定し持続可能なものへとつながるのです。個人的な生活の側面においては、新鮮な直感と未来の成長への大きな夢を大切に扱い世話をするという、やはり養育的な態度が求められるでしょう。一方で偽善的な共感や同情や子どもじみた自己の甘やかし傾向が見られるときでもあります。それが真に相手のためになるのかどうかはそれ自体の持続可能性にかかっています。
サビアンシンボルは
山羊座14度「御影石に刻まれた古代の浅浮き彫りが、長いあいだ忘れられていた文化の生き証人として残り続けている」

このシンボルのキーノート(基調)は
「どんな文化とも同じようにわれわれの文化において、不変の価値をもつものを発掘し不必要なものを手放そうとする意志」

きょうはどんな日?
正当な根拠をもつ歴史的な眺望に基づいた鋭く透徹した勇気ある洞察力が求められ、国家や集団の歴史と同様に個人の人生の過去についての大きな見直しが必要とされるときです。

自身の内面に極度に集中することを通じて、特権性や貴族性を排した、解剖的でも分析的でもない具体的な知性の活用をかんがえておきたいときというのがきのうでした。火を崇拝するということは変容を志向し希求するということ。変容の絶えざる連続こそが伝統。瞑想や思索を通じて得られたものに開放性が認められてこそ、知は有効に使われるのだという具合でしたが、かんがえられることはあったでしょうか。きょうはさらに広く歴史的な視野が要求されます。

きのうのテーマの要点は伝統的に脈々と続いている文化の営みに自分の思考がどれだけ接近できるかということにあります。英才教育的に伸ばされたエリート然とした個性と、特権的ではあるが高度に専門的な知性との統合は、それら自体の閉鎖性を排して公に開かれることで広く一般に通じている伝統的文化ときわめて近似した知の体系となり得るのです。ここにはみずから構築した知の体系の正当性および正統性に対する確固たる自信が存在していますが、きょうはそれも含めて既存の伝統的文化についてさえも正当性と正統性とを検証するプロセスになります。シンボルに描かれている浅浮き彫りはおもに西洋の宗教建築の装飾として目にすることのできる彫刻です。聖堂などを礼拝する人々の視線を集めると同時にそこに集う人々を眺め見守ってきた、人間の信仰の歴史を目撃し続けてきた存在です。つまり人間の文化において普遍・不変といえる価値を代表し象徴しているものということです。私たちが通常これは伝統的で〈正しい〉のだと信じているような文化や慣例的な習俗が、本当に正しいものであるのかどうかいったん疑ってかかってみることがきょうのテーマとして暗示されていることです。とはいえいたずらにただなにもかもについて懐疑的になるのではありません。恒久的な価値や重大な原理と個人的な癖や習慣は切り離してかんがえる必要があります。また改良や開発の名のもとにたいていの場合その文化のそもそもの独自の理念を誤らせ無効にしてしまいさえする社会的政治的な営みも、ここでは分けてとらえるべきです。根本的に普遍だと信じられているものの普遍妥当性をいま一度見直してみようということがここでは示されています。またこれは言うまでもなく歴史的な視点からとらえ直す作業となりますが、文化の所産を歴史的に眺望してみた際にそのなかに自分の思考がすでに先どりされていることにも気づくでしょう。上述のような近似からそれは当然のことですが、先人の成し遂げたことと自身のそれとの近似や類似や接点が見い出せるがゆえに、その両者ともの正当性と正統性とを検証する必要が生じるのです。それは本当に残り得るものか、残すべきものなのか。理想や理念の〈結晶化〉のために、「あり得べき姿」の本格的な具体化のために必須のプロセスとしてとり組んでみてください。まったく無意味な制限をかけたり限界を設定したりする傾向が見られるときでもあります。疑うことと拘束することとは別個です。
サビアンシンボルは
山羊座13度「火の崇拝者が存在の究極のリアリティについて瞑想する」

このシンボルのキーノート(基調)は
「生死のプロセスの相互作用を超えた根本原理の主観的探求」

きょうはどんな日?
自身の内面に極度に集中することを通じて、特権性や貴族性を排した、解剖的でも分析的でもない具体的な知性の活用をかんがえておきたいときです。

知識の探究に並ならぬ意欲が発揮され、特権的ではありながらも獲得した知識の利用に有効な自身の方向づけが見込めるときというのがきのうでした。限られた人間が対象で高度に専門的だというように一定の制限つきではあるけれど該博な知識の獲得と知的好奇心の満足に向かう。エリートの富や文化に随行し誇示することとは対比的に実践的な知識の探究に向かっていくという具合でしたが、自分の関心事は追求できたでしょうか。きょうはよりいっそう具体性を帯びた知性を志向することになります。

英才教育的に伸ばされたエリート然とした個性と、特権的ではあるが高度に専門的な知性。きょうはこの両者が統合されることになります。想像するに非常に鼻持ちならない選民意識に貫かれた知性が成熟へと向かうことになりますが、その傾向は少なからずあり否定できません。しかし文化的な喜びや楽しみを覚えることと、それを通じてしばしば使いものにならない感覚のデータの蓄積を追い求めようとする情熱とを超えてこそ、知識というものは意志の力あふれる決然たるものへと、言わば〈意識の冒険〉へと連なり得るのです。シンボルに描かれているのはかなり秘教的な光景ですが、火の神秘は古来より人間の想像力をとらえて離さないものです。なぜならそれは「死の謎に包まれたあらゆる変容の神秘(ルディア)」だからです。神学上あるいは思想史上の火地風水の四大元素を現代の自然科学における意味でとらえ直すと、それは今日的には〈元素〉ではなく物質の〈状態〉なのであると説明することができます。すなわち地は固体、風は気体、水は液体に対応します。火はこの三態とは異なって物質がなんらかの化学反応を起こしている〈その最中の状態〉なのです。燃焼とは物質が急激に酸素と結びつき光と熱とを生み出す現象のことですが、四大元素の火とは物質の酸化のプロセス、つまり極端な変容のプロセスを象徴しているものなのだと理解してください。一方で物質の燃焼後に残る灰とは完全燃焼によって気化することなくとどまった無機質であり、死および再生のイメージとして宗教上や芸術上の題材として馴染み深いものです。火を崇拝するということは変容を志向し希求するということです。「伝統とは炎を次に伝えるということであり灰を崇拝することではない」とグスタフ・マーラーは述べたとされていますが、変容の絶えざる連続こそが伝統なのです。変容を志向する精神が地に足の着いた思考を求めるとき、それは連綿と続き得る知の水脈となって私たちの風土にあまねく行き渡ることになります。特権性や貴族性からの脱却が求められることは言うまでもないでしょう。瞑想という行為が象徴しているのは個人の内面の自由と尊厳の担保ですが、そうして得られたものに開放性が認められてこそ知は有効に使われるのです。そしてそうすることこそが理念や理想の、「あり得べき姿」の具体化へとつながるのです。個人の能力を首尾一貫して過大評価する傾向が見られるときでもあります。見極める目は正しくもちましょう。