すずきふみよしの「星の音を聴く」

すずきふみよしの「星の音を聴く」

読むこととはすなわち聴くこと。耳を傾けること。
ホロスコープから「聴いた」ものを、そして感じとったものを、日々丹念に言葉にしていきます。

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 ぜひご一読ください。

★ご自分の出生時の太陽の位置を知りたい方
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 出生時刻が不明の場合は12時を指定してください。
 [調べる]を押すと天体位置の一覧表が表示されます。
 一番左上が太陽の位置を表す度数です。
 ここでひとつ大切な注意事項があります。
 表示された数値の分以下を切り下げたものに1度足した度数が当ブログで使われている太陽の位置です。
 筆者の場合では牡牛座26度40分ですので、牡牛座27度ということになります。

★鑑定のお問いあわせなど
 こちらのエントリーに詳細をまとめました。ご参照ください。
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[太陽]
双子12度「黒人の少女が街で自立のために闘う」
キーノート「過去の亡霊からの解放」

人の健康と安心とがよって立つ社会環境の衝動強迫と、あらゆる起こり得る時と場合において未熟な翼を練習させる必要とのあいだで、すべての個人が保たなければならないバランスのシンボルである。あえてする限りにおいてだが女主人の忍耐力を試そうとしている奴隷少女のように、人はなにか一つでも身分や人格すなわちキャラクターをもつためにほとんどスピリチュアルな厚かましさをもってして、自分の生に対してきっぱりと申し立てをしなければならない。人格とはここでは、それがいまのところまだなるべきものになるその存在そのものを危険に晒し賭すに連れて洗練されるのである。

キーワード:GROWTH(成長、成育、増大)
ポジ:体験のあらゆる新しい状況を個人的に利用することへの高い天分
ネガ:純粋な不満における喜び

[月]
射手12度「旗が鷲へと変わる。鷲は夜明けを祝福する雄鶏へと」
キーノート「前兆的な表明に敏感な精神による、ニューエイジの大きな象徴の精神的な浄化とプロモーション」

自覚している自分自身の実体をつくり出す確立された忠誠と、それによって自分自身を自分固有の権利のなかでのアイデンティティとして自己維持していくような理想化された野心とのあいだで、すべての個人が保たなければならないバランスのシンボルである。人はなにか一つでも個性や特徴すなわちキャラクターをもつために自分というものの独自のバージョンを提示しなければならないが、人格とは、生き残るためにはそれに期待されているものになるように順応しなければならない。理解とは自身とその状況との飽くなき闘争を通じて洗練されるのである。

キーワード:ADJUSTMENT(調整、補正)
ポジ:真正の自己表現を通じての上首尾の自己確立
ネガ:怠惰な先入観および無根拠で根も葉もない主張

いつもながら一読しただけでは意味を把握しづらい難文が並んでいるが、両者の対比的な構造はいつも以上には鮮明だ。二つのシンボルともにバランスのシンボルであるということ。双子12度のほうはプレッシャーのなかにありながら自分自身の未熟さをうまく扱うために必要となってくるバランスであり、射手12度のほうはそのような抑圧がよりいっそう大義名分を帯びてきていて、自身の野心とのあいだで強い軋轢が生じているという様相を見せている。
後者におけるバランスとは、変わりつつある、もしくは変わってしまった己を自覚しながらも、それをいかに御していくか――表面的な適応を示しつつも自己の変容を打ち立てるという困難な両立であると言える。そしてまた、双子12度のほうは人格の洗練が描かれているのに対し、射手12度のほうは理解の洗練を扱っている。さらに、慎重に選ばれた言葉で対比的に描かれているのは〈キャラクターの確立〉であり、これが今回の満月のテーマであると言ってよいだろう。

太陽のほう、双子12度の象意をあらためて解説する。先行の双子11度「新しく開かれた土地が開拓者に体験の新しい機会を提供する」キーノート「新たなはじまりの力と喜び」では、未知の領域を切り拓くために知性がもたらした力を使うことが示されていた。双子の第1デーカン(decan: 十分角=旬)を経て培われた、知性による分析的で破壊的な力が、新天地においてみずからの非常に強力で有効な武器となっている様子である。知性化の重要なプロセスだ。しかし、新しい土地にあっては必ずしもその武器が万能ではないことも早晩わかってくる。そしてまた、土地は新しく開かれているにもかかわらず、そこに足を踏み入れた自分の心はどうであろうか。予断、先入観、期待、野心……そのようなものにとらわれているのであれば、少しも開かれているとは言えないのではなかろうか。そうしたものを生み出しているのは、ほかならぬ自分自身の経験ではないのか――そこからの脱却を図るというのがキーノートにある「過去の亡霊からの解放」ということである。
この双子12度だが、ジョーンズ版のオリジナルでは"A Topsy saucily asserting herself.(生意気に自己主張するトプシー)"となっていた。トプシーとは『アンクル・トムの小屋』に登場する黒人奴隷の少女の名である。しかしながら「生意気に自己主張」などという生易しいものとはおよそ言いがたい、生を賭した、過去の自分との訣別を伴った、命懸けの〈新しい自分の確立〉がここでは志向されているわけである。

月のほう、射手12度の象意。上述のとおり自己の変容を自他もしくは公私のなかでいかにバランスをとった状態に保つかということが一義的にはテーマになっていると言えるが、ここではまた違った側面から解説を試みる。旗とは一般的に一つの国家の象徴である。鷲はアメリカ合衆国という特定の国家の象徴であり、また同時に超国家的な強権の象徴でもある。そして雄鶏とは卑小な個々人の生の象徴である。これらが入り組んだ変容を見せているシンボルであるが、これをどう読むか。一つの国家が抱える文化の所産が全人類的にまとめ上げられ、それが個々人の利便性に供されているさまを想像してみるとよい。きわめて今日的にとらえれば、クラウドに集積された集合知をオープンソースとしてだれしもが利活用しているさまである。
知性化のプロセスをかんがえた場合に、双子11~12度では分析的な知性が個人の強い武器として有効である様子と、それへの過度の信頼から離れることが示されていた。射手11度は「古代の神殿の左側の部分で、人間の体に似たかたちの容器のなかでランプが燃える」キーノートは「知性と客観的な意識にかかるストレスの平衡を保つために近代の思想家たちが推奨してきた〈身体への回帰〉の価値」とあるように、これは知性偏重からの脱却と身体知の重視を示すものだった。それを受けての射手12度は、知性のあり方が非身体的で非人格的であるような、そのような知の発展が示されているのだと読解することが可能である。そのなかにあって、個々人は自分の個性をどのように確立することができるか。自分の独自性をどのように示すことができるか。そのような変容と自己のキャラクターの確立がテーマになっているのだと読むことができるだろう。

さて今回の満月。太陽が示しているものは過去の自分との訣別である。単なる皮相的な自己主張などではなく、まさに身を切る想いで、なにかをやめてなにかを捨てて、いまの自分はなにを欲しているのかを明確に表明する必要に迫られることだろう。いや、そのビジョンはけっして明確ではないのかもしれない。しかし、少なくともいまの自分がどれだけ未熟であるかははっきりとわかるはずだ。その痛感のなかから、ではどのように成長したいのか、どういう姿になりたいのかを強く強く描くことができるだろう。それを訴えることは、いくらか口幅ったいものでも厚かましくても構わないのである。
月が示しているのは自己の変容をいかに外見上バランスよく見せるかということだ。その際に、おそらくインターネットというものはきわめて有効な手段となり得ることだろう。ただ単に自分をとり繕うというよりは、一種のギミックとしてうまく自己表現にとり入れてみるとよい結果につながるものとおもわれる。そしてこれらの緊張的なバランスのなかで、いかに〈自己主張〉を効果的な〈自己表現〉に包んで見せることができるか。そこに自分の〈真価〉が多角度から問われる、そんな半月だととらえて、ぜひとも有意義にすごしていただきたい。
[太陽]
牡牛14度「海岸で、甲殻類が水際を手探りで進む一方で子どもたちが遊んでいる」
キーノート「再び活力をとり戻すためにより単純な喜びに回帰すること」

実存の各々別個のレベルにおける存在の自給自足のシンボルであり、それゆえに下層階級のものを温存し上流のものの進歩的な発達を促進する。シンボリズムの含意は、広く進化的なスケールに到達しようとする生と、真正の個性を通じてそれ自体の即刻の成熟に向かうものとの、接続である。より大きなより優れたリアリティの基本モードとしての自己発見がここでは強調されている。

キーワード:EMERGENCE(出現、発生、脱出)
ポジ:継続してある自分のすべきことへの注意の絶対性を通じての自己自身の高潔さ
ネガ:存在の分岐する可能性への不要な懸念を経ての絶望的な自己拡散

[月]
蠍14度「新しい接続を設置する仕事中の電話の架線作業員」
キーノート「コミュニケーションの新たなチャンネルを確立する必要」

すべての他者との存在のあらゆる相をリンクさせる相互接続の、また経験の最も広く分断された際立った局面どうしのあいだの関係性を拡張する人間の特別な才能のシンボルである。シンボリズムの含意はあらゆる高等な生の側の低級な生への責任であり、また劣ったものが優れたものを要求する際の誠実さである。すべての個的な存在の根底モードとしての自己特殊化がここでは強調されている。

キーワード:ATTACHMENT(とりつけ、結合、付着、接続、連結、愛着、愛情、付属品、差し押さえ)
ポジ:日常生活にそれぞれ関連する複雑さのなかへの人間の能力の効果的な浸透
ネガ:他人の私事への不要な懸念

珍しいまでに二つのシンボルにおいて共通もしくは類似の語や言いまわしが少ないのだが、よく読めばやはり対比的な内容が描かれていることが理解できるだろう。共通点を積極的に見出しわかりやすく説明するならば、上下/高低/優劣など相反する二者間を〈つなぐ〉ことがテーマとなっている点だと言える。とは言え牡牛14度のほうでは、そうしてつながれたそれぞれが別個に自立的な生を生きていることが描かれているのに対し、蠍14度のほうでは二者の関係が責任や誠実さを伴うような密度あるものとして描かれている。

太陽のほう、牡牛14度の象意を端的に言えば、キーノートに記されているとおり、喜びや楽しみを通じた自身の活力のリクリエーション(=再創造)である。先の牡牛13度「重い荷物を運んでいるポーター」では、さらに先行する牡牛12度「ウィンドウショッピングをしている若いカップル」で示された物質文明への魅了と欲望充足の対価を支払わなければならないため、責務としての重労働が描かれていた。この14度では童心に帰って遊びに興じることで精神のバランスを図る様子が描かれている。海岸というものは砂浜と波とのせめぎ合いの場であるが、いつものようにこれを意識と無意識とのせめぎ合いと解釈することも可能であるし、社会文化的な存在としての人間とまだそれにいたらない未発達で未成熟な存在とのボーダーラインが示されているとも言える。より言うならば、この二者間を〈つなぐ〉ことこそがこの度数の真の象意であり、そしてまた遊びの本質ではあるまいか。

月のほう、蠍14度で描かれているのは、これまたキーノートがきっぱりと言い切っているとおり、対人関係において新しいコミュニケーションの道筋をつくり上げる必要性である。蠍13度「発明家が室内実験を行う」では、ものごとの根本にある関係を把握して、それらの組みあわせや応用をかんがえることがテーマとなっていた。それが社会的な責務の対向に位置づけられていたわけであるが、この蠍14度ではそこからさらに進んでより具体的なネットワークの確立が求められるようになっている。ルディアはそれを「つくられるばかりでなく、有意に、賢く使われるべきである」と述べており、実際にコミュニケーションをもつことが重要なのだとしているわけである。そしてまたジョーンズはそこに責任や誠実さが伴うのだとしているわけだ。

今回の満月。太陽が示しているもの、すなわち公的な生き方の指針は、実にゴールデンウィークにうってつけの余暇のすごし方である。リクリエーション、リフレッシュ、どう表現してもよいだろうが、遊ぶことやなんらかの楽しみをとおして存分に英気を養い、これからの活力を回復することが示されている。またそれは他人の生活を尊重し脅かさないことが前提であり、人はみなそれぞれ生かし生かされて生きているのだという共生的な視点をもつことも大切だろう。一方で月が示しているものは、生活の個人的な部分ではより深く濃密な人間関係の形成を求めていくという欲求である。まったく未知の人たちと関わりをもつのもありだろうが、おそらくはすでになんらかの関心があり、ことによると下調べや準備などもできている関係性がなにかしらあるのかもしれない。それをもとにして深い交わりをもつことに進んでみるのがよいだろう。休息をとって調子を整えたうえで、実りある人間関係の第一歩を踏み出していただきたい。
[太陽]
牡羊15度「儀式用の毛布を織るインディアン」
キーノート「総体性の実現と自己実現の充足感とを日常生活のなかに投影すること」

自己表現のごく単純な卓越を通じての個人的な充足のシンボルであり、またそれは真の冷静さにあって望まれたあらゆるものごとを中心に据えるための手段として、存在の基本的な技能を与える。人がそのなかで自分自身を発見するような文化から構成されるなんらかの技法あるいは価値観を保全または増強するための個人の天賦の才を通じて、自我というものは安定化される。永続的な自己の欲求の満足の手段として、生涯の仕事は人的必要性を満たすようになるのである。

キーワード:DILIGENCE(勤勉、不断の努力、熱心さ、骨折り)
ポジ:固有の特質の関心における自身の個々の適切な行動を静かに秘めやかに貫徹すること
ネガ:日常の退屈なルーティーンを束の間の安全の類として受容すること

[月]
天秤15度「環状の小道」
キーノート「社会活動の一定のリズムを確立する必然性と折り合いをつけること」

体験への参加を徹底させることを通じての主観的な充足のシンボルであり、中心で自分自身に忠実であり続けるためのあらゆる個人の天賦の才によって、ここでは劇化されている。人それぞれの人生の出来事には果てしない繰り返しがあるものだが、意識は絶えず軌道を保持し続け、理解は依然として変わらないままであるはずだ。人間と世界とはある危機的な点においては互いに完全に不和であるかのように見えるが、万事はすべて不可避的に落ち着くべきところに落ち着くものである。

キーワード:CONGRUITY(適合、一致、調和、合同)
ポジ:順応ないしは実践的な再方向づけにおける幾分並外れた腕前
ネガ:堂々巡りの思考傾向や非論理一貫性にあってまったく見通しを誤る傾向

両者の冒頭に共通しているのは「充足のシンボル」であるという点。「個人的」と「主観的」とではずいぶんと意味あいが似かよっているようだが、反意語をかんがえてみれば、前者牡羊15度では集団や全体に対しての個人の充足について述べており、後者天秤15度では認知や認識の問題として客観的ではなく主観的な充足を意味しているのだということが理解できるだろう。前者がいわゆる自己満足であるのに対し、後者ではソーシャルな認識を前提としながらあくまでも自分の視点からとらえた満足度合いを問題としている、というわけだ。

太陽のほう、牡羊15度で描かれているのは、そのような自己満足を日常生活のなかで展開することが一種の自己実現ともなり、また自分という存在の安定化にもつながる様子である。いくらか好意的にとらえ、また主客転倒した言い方をすれば、ライフワークというものはすなわち絶えざる自己満足を繰り返すことなのだと読むこともできるだろう。〈ゾディアックの人間成長の物語〉全360話の第15話が終わったところに相当するわけであるが、ここでいったん自己実現が達成されて充足にいたっているのだと、長いスパンで見ればとらえることもできる。牡羊13度「不発弾が失敗に終わった社会的抗議を明らかにする」では先行する2つの度数、11度12度との衝突が示された。それはすなわち、政治権力による社会の統治と、個人の内的倫理による自律との確執である。そして14度「男と女のそばでとぐろを巻く蛇」ではその両者の融和が示された。二極的な関係が一へと融合することを、とぐろを巻いた蛇が象徴していた。これらを踏まえての「充足」がこの15度である。

月のほう、天秤15度で描かれているのは、リズミックな規則性が社会活動を営むうえではどうしても求められるのだということを理解する必要性である。とぐろを巻いた蛇は牡羊15度では人間の心に内面化され、自己完結的に自己充足にいたった、それが織物・毛布へとかたちを変えたのだと見ることができるが、ここで「とぐろ」は環状の小道へとまた変態を遂げたとかんがえられる。牡羊15度で内面化されていた二極的な関係のエネルギーは、天秤15度では、環になった道を歩く周期的な運動のエネルギーへと転換されたのだということだ。それはとりも直さず社会的な活動への参画を意味し、そこではなによりも反復的な規則性が求められる、というわけである。

今回の満月は、太陽のほうが個人的な充足を示し、月のほうがよりソーシャルな視点をもっている点がなんとも複雑であるが、ともあれ規則正しい生活を心がけるように気構えを新たにしておきたいところだ。それが自分の内面の安定化にもつながるのだというわけである。ただ、それはその場しのぎのために型に嵌まったことをやるようなものであってはならない点にご注意を。自分をよく見つめ、自分から湧き出てくるものを、自分ならではのやり方でゆっくりとかたちにする――静かに、秘めやかに、織物を織り上げるように、たとえ自己満足であるとしても、またそして少しは世の中に目配せもしながら。そのような半月としていただきたい。
[太陽]
魚15度「実包の破裂弾の集中砲火が繰り広げられる軍事演習の前に、部下に指示する士官」
キーノート「力が使用され喚起される、複雑で本質的に危険な社会的儀式の前の、リハーサルの徹底の必要」

そのなかにあって自身を見失い得るような忠義というヒエラルキーへの人間の自己欺瞞的な欲望のシンボルであり、日常の皮相的な生およびその帰結についての全責任の放棄という側面に明白に認められる。シンボリズムにおける含意はそこから即時的な当面の解放がないような状況を最大限に活用する挑戦であるが、それはより永続的な重要性をもつなんらかの現実に参画する決意をもってしてやるしかないことである。生活とは個々人がそれを刺激的なものにしようと動機づける決定をする限りにおいて生き生きとするのである。

キーワード:PRECISENESS(正確さ、厳密さ、几帳面さ)
ポジ:共通の目的に真正の能率と本物の冒険をもたらす天賦の才
ネガ:退屈でなにものをも鼓舞せず刺激を与えることのない苦役

[月]
乙女15度「勇敢な祖先からの家宝の立派なレースのハンカチ」
キーノート「よく成し遂げられた行為の見本」

自身より高度もしくは高純度ですぐれたリアリティに対する忠義への人間の自己活発的な欲望のシンボルであり、美学的な本能の側面に明白に認められる。騎士というものは理論的には少なくとも騎士道精神の護符として自分が仕える貴婦人の一枚のレースがなければ騎士道の名簿に登録され得なかったのであり、またあらゆる健常な人間は自分のよりよい衝動を継続的に喚起してくれるなにかがなければ幾分の喪失感を覚えるものである。目的とはそれゆえに意味を保全し完璧な行動を助くるものとして価値あるものなのである。

キーノート:GRACEFULNESS(優雅さ、上品)
ポジ:個人的なマナーの効果的な洗練および例外的な魅力を通じての高度な達成
ネガ:意味ありげでご機嫌とりの当てつけがましい自己虚偽および些末なことへの大袈裟な関心

両者の冒頭に共通しているのは「欲望のシンボル」であるという点。またいずれにも「忠義」が大きく関わっている。魚15度ではそれは階級社会におけるものを意味し、そのなかではみずからを見失ってしまうようなものとして示されているが、乙女15度での忠義は高度に構築され洗練された文化の体系の称揚に捧げられるものとして積極的好意的に示されている。

太陽のほう、魚15度では、退路がなく逃げることが一切許されないような状況のなかでそれをいかに有効利用し打開するかといういわば決死の覚悟に基づいた試みが描かれているが、ルディアはこれをゾディアックの終盤、魚というサインの半ばに差しかかっての、不可避の根深い闘争なのだと記している。それは満たされなかった過去、生きられることのなかった生という亡霊に対する闘争であり、回避され続け蓄積されてきたカルマに直面することなのだとも書かれているが、つまりはやり残したことのツケがまわってきているという状態だ。そこで認識するのが「リハーサルの徹底の必要」であるとはずいぶんと泥縄的な感がなくもないが、いずれにせよやらなければならないことに向き合う必要に迫られるのはまず間違いないだろう。

月のほう、乙女15度で描かれているのは、みずからの手中に当然のようにあるものの源流はいったいどこにあるのか、それを認識することである。直前の乙女14度「貴族的な家系図」は自身の出自を確認し、力の源泉が祖先につながっていることを自覚する度数であったが、この乙女15度ではそうして祖先から伝承されたものそれ自体さえもがそれをとり巻く文化の所産の賜物であることを理解するという展開になっている。より〈大きなもの〉へと自分自身が連なっていることを実感し、またその“大きな物語の体系”のなかに自分が生きていることを好もしく喜ばしくそして誇りにさえおもう様子が描かれている。自己充足的ではあるが、ジョーンズが本文で記しているとおり、そのような価値体系への自己同一化が刺激を与えてくれるものでもあるわけである。魚15度ではみずから刺激的なものにしようと動機づける必要が示されているのだが。

今回の満月、公的には上述のとおり、やらなければならないことに向き合う必要に迫られる可能性が示唆されているが、また同時に私的な満足を得ようとすれば非常に簡単にそれが手に入ることも示されている。易きにつくのであれば権威にすがるよう求めて走ればよい。しかしそこでただ単に自己満足に安穏としていては、山積した問題は手つかずのままである。自分の私的内面的な心持ちをよりよくし高めるものとしてなんらかの権威を求め、その末席に自分がいることを確認して悦に入ったとしても、やらなければならないことをだれかがやってくれるわけではない。内的な誇りを大切にしながらも、重要な問題の解決に全力でとり組む半月にしていただきたい。
[太陽]
水瓶15度「垣根にとまって幸せそうに歌っている二羽のボタンインコ」
キーノート「スピリチュアルに満たされた〈魂〉の意識によって個人の達成に授けられた祝福」

単純な自己実現の結実を誇示することの自然の歓喜のシンボルであり、人間の性格における共有の豊かさあるいは優しさの自然な成就として最も効果的に劇化されている。いかなる内面的なもしくは心理的な完全性においても高度なマジックがあって、それによって結果として世界全体は恋人たちに微笑み、また平均的な個人はたいてい生の実際的な見返りよりもロマンチックな事柄のほうへといっそう関心をもつことになるのである。人は自分自身がつくり上げたリアリティのなかで仲間と抱き合うことで自分の真の運命を達成する。

キーワード:AFFIRMATION(断言、肯定、確約、賛成)
ポジ:絶対的な忠義と完全な協力とを獲得する自己一貫性
ネガ:無分別な嫉妬

[月]
獅子15度「華やかな山車を連ねたページェントが喝采する人々で賑わう通りを行進する」
キーノート「人間の根源的で本能的な本質の、無意識の大望を劇化する形をもったエネルギーの、多少なりとも煽情的な解放」

達成の結実を誇示することの人間の普遍の歓喜の、また共通の仕事や協同的な業績のなかでまさしく人間のプライドを通じて日常の世界において劇化された素朴さのシンボルである。ほとんどの人々がちょっとした端役で関わることさえまずないようなものごとすべての公然陳列において高度なマジックがあって、その外側はそれを通じて全体が隅から隅まで優れているということが明らかになるような仲間意識の感覚になり、不明瞭な理念は一つ残らずすべてどうしたものか幾分高揚する。

キーワード:DEMONSTRATION(示威行動、デモ、実演、表明、論証、立証)
ポジ:体験の全体の相を横断する自己の重要性の抗い難い高まり
ネガ:説得力のない主張および気恥ずかしくきまりのわるい人を当惑させるような自己主張

両者に共通しているのは歓喜のシンボルであるという点。達成、自己実現、どのように言ってもよいのだろうとおもうが、実りある成果を上げることについての喜びに満たされた度数である。その主体が、獅子15度では人間であるのに対して、水瓶15度では自然へと変わっていっている。より非人称的・非人格的なものへと喜びの質が変化していることが示唆されていると言える。

獅子15度で強調されているのは人間の組織的な協同である。直前の獅子14度「外への声明のために機会を模索している人間の魂」では強い自己実現への切望が示されていたが、それを経て15度ではさらに社会参画などを通じて個の尊厳が公的に満たされる様子が描かれているのだと言える。また一方水瓶15度で示されているのは、キーノートにもあるように個人への祝福であるが、その主体は個人ではなく社会や世界や、またひいては自然なのだということ。喜びを受けとる側と与える側、描かれている中心がそれぞれ異なっているように読みとれる。水瓶14度「トンネルに入る列車」は目的達成のために最適な道をとる行動が示されていたが、それを経た15度ではその目的達成に対しての祝福が描かれているわけである。

今回の満月は、太陽のほうが水瓶15度であるということから、社会や世界、自然からの個人への祝福が、公的な色合いを強く帯びた承認を意味するような質のものになっていると言えるだろう。やってきた行いについて、あるいは“ありのまま”の姿に対して「それでいいのだ」という肯定の光を、社会や世界や自然が投げかける――その光によって個人は存分に照らされ歓喜する、人とのつながりをしっかりと感じとりながら、という構図が、この満月の示すところだ。実りの満月としてじゅうぶんすぎるほどの豊かさに満たされた状態であると言うことができるが、今回の満月はそれだけに留まるほど単純ではないようだ。

今回の満月は太陽-月のオポジションに加えて、火星と冥王星とが月にヨド・太陽にセミヨドを形成しているという複合アスペクト――いわゆるブーメランをなしているところが特徴的だ。魚火星と山羊冥王星との二重インコンジャンクトに縛られた月は、単に祝福を受けると言うにはあまりにいじめられているが、その分太陽によって〈救われて〉いるのだと言える。傷つけられた〈私〉の傷を修復する、あえてより言うならば〈報復〉することに、太陽の光が公的なお墨付きを与える。こんなふうになったのは世の中がわるい社会がわるい政治がわるいと祭り上がり、ページェントで練り歩いてもよいのだと大義が与えられる。そんな満月になりがちだと言えるだろう。折しも緊迫した世相のなか、盛り上がる格好の口実ができたところではあるが、その主張に本当に説得力はあるのかどうか、見ているほうが恥ずかしくなるようなひとりよがりな自己主張ではないのかどうか、じゅうぶんに省みる冷静さをもちたいところでもある。満月の実りを享受するなか、それを次にどう活かしていくかをかんがえる半月にしていただきたい。
[太陽]
山羊15度「病院のなか、小児病棟がおもちゃでいっぱいになっている」
キーノート「新しい世代の福祉と全体の健康を保証する社会の責任」

それ自体のいかなる通常の表明においても不可避の生の豊かさのシンボルであり、ここでは社会的および理念的な側面におけるじゅうぶんな報いのなかに重点が置かれている。全人類には明確な理由もなしに訪れる肉体的心理的な限界があり、またそれらはしばしば天罰の戯作のように見えるが、つねにより深い交際へのいまだ実現されていない機会でもあるのである。経験とは、その終局という意味においてよりはむしろその実りにおいて本物である。

キーワード:ABUNDANCE(豊富、富裕、多量)
ポジ:状況のあらゆる一過性の不意の出来事にもかかわらず自身および仲間の真の潜在力を開発する人間の能力
ネガ:偽善的な同情および自己過保護

[月]
蟹15度「豪華なダイニングホールで来客たちが大宴会の会食後にくつろいでいる」
キーノート「充足の概念の実体化に向けての、人間の成長の初期段階に存在する必要性」

それ自体のいかなる通常の表明においても不可避の生の豊かさのシンボルであり、ここでは自身の努力の結実として人にやってくる報いの側面に重点が置かれている。将来への保証として現在を凍結させようと試みるときに、あるいは他方において不適切さの帰結への賠償として自身の内面に一方向に過剰に耽溺しようとするときにはいつでも処罰が存在するが、満ち足りた個性というものはそれ自身の潜在性が浪費されることのない循環的で首尾一貫した確信を有している。

キーワード:SATIETY(満腹、満喫、飽満)
ポジ:人的適性の効果的でスムーズな示威
ネガ:食欲への自己崩壊的な降伏

両者の冒頭は完全一致。蟹15度のほうでは「自身の努力の結実として人にやってくる報いの側面」に、山羊15度では「社会的および理念的な側面におけるじゅうぶんな報いのなか」に重点が置かれていて、後者はより広範なものとなっている。いずれにしても(いつもながらのジョーンズ固有のまわりくどさを極端に排して言うなれば)なにがあっても豊かな生を享受できるという福々しさに満ちたシンボルである。

各々の背景にあるものを見ていく。山羊14度は「御影石に刻まれた古代の浅浮き彫りが、長いあいだ忘れられていた文化の生き証人として残り続けている」キーノートは「どんな文化とも同じようにわれわれの文化において、不変の価値をもつものを発掘し不必要なものを手放そうとする意志」こうして見出され必要であると見なされた価値あるものを享受しているのが山羊15度であるということ。小児病棟にあふれているおもちゃはこうした価値の具現化である。蟹14度は「北東の広大な暗黒の虚空を向いている高齢の男」キーノートは「超越的で不変の知恵に満足すること」こうして自分のなかに確信として得られた知識の豊かさを享受しているのが蟹15度であるということ。来客たちが平らげた料理の数々は自身の内省と思索の結実であり、卑俗な言い方をすれば“自分へのご褒美”である。

太陽のほう、山羊15度の象意は、キーノートにも示されているとおり、14度で見出された文化の所産の価値を福祉へと有効利用するという社会的責任である。勢い余って過干渉なパターナリズム的介入ともなりがちであるが、肯定的な発現が見られる場合には非常に有意義な潜在力開発にもつながり得るだろう。月のほう、蟹15度の象意は、ここでいったん充足を受けとりそれを通じて自身の今後の成長へつなげることである。物質的な充足はあくまでも一時的で過渡的なもの、そして表面的皮相的なものでもある。それをこの先、実質あるものへと変えていくということこそが、この度数の真の象意であると言える。

社会的な建前としてでも公共の福祉について意識しなければならなかったり具体的に責任を果たすことが求められることになる可能性がある一方で、個人的な満足に浸っていたいという欲望のくすぶりが疼いて仕方ない時期でもあると言えるだろう。引き裂かれながら煩悶しつつも上手に折りあいをつけていただきたい。願わくば〈お役目〉をしっかりと果たしたうえでご褒美を受けとり、今後の成長へとつなげるような発展をめざす半月にしてみていただきたい。蛇足ながら仕事はじめの折、暴飲暴食にはご注意を。
[太陽]
射手15度「2月2日のグラウンドホッグデーに自分の影を探しているグラウンドホッグ」
キーノート「出来事の新たな展開を予測し将来の見込みを確かめることの価値」

頼みにしなければならない潜在力の当面の状態ないし傾向における人間の創造的な関心のシンボルである。起こり得る偶発的事件の予測を通じた体験の直接的なリハーサルが、あるいは躊躇のない徹底した実践的な試行錯誤がここにはある。シンボリズムの含意は風のなかの麦わら(訳注:将来起こりそうなことを示すものの比喩)への首尾一貫した感受性であり、また瞬間の状況をうまく利用するために自身をいくらでも順応させようとする意欲である。

キーワード:REASSURANCE(安堵、元気づけること、再保証)
ポジ:与えられたいかなる論点においても行動あるいは反応の適切なコースを決定するもって生まれた才能
ネガ:自己の安定性の欠如および身にしみついた根深い臆病さ

[月]
双子15度「知識を交換しながらおたがいに話しあっている二人のオランダ人の子ども」
キーノート「志を同じくする人との実際の接触を通じて自分の体験を明確にする必要性」

当てにし利用し得る潜在力の広範囲における人間の創造的な関心のシンボルである。体験のリハーサルはここでは代理的に、また根本において環境への単純な自己の貢献についての子どもらしい無条件の親しみやすさの問題となり、したがってあらゆる実践的なもしくは日常的なレベルにおいて生のより効果的な把握を促進するのである。あらゆる関係性は背景および技能の共通要素へと要約される。

キーワード:CLARIFICATION(明確化、清澄化、浄化)
ポジ:起こり得るいかなる状況においてもそれによって気楽に有利に自己を確立できる精神の自信
ネガ:極端なまでの偏狭な地方気質およびいつなんどきでもアイデアを伝えることの不能

人間の創造的な関心のシンボルであるという点が両者に共通している。それが自身の潜在力について向けられているのはともに同じだが、射手15度ではそうすることが一種の責務のような色彩を帯びているのに対し、双子15度では遊戯的な軽やかさを感じられるところが違いと言えるだろう。これは射手14度「大ピラミッドとスフィンクス」には知の体系や文化の遺産の管理や継承をテーマとしていたがゆえの〈重たさ〉があり、双子14度「物理的空間と社会的差異に橋を架けて、二人の男がテレパシーで意思伝達を行う」には肉体的な存在の限界を超越するという極端に解放的な奔放さがあったためだととらえることができる。

太陽のほう、射手15度で描かれているのは、そうした重たさを引きずりながらも知の体系や文化の遺産を強大な背景として有効に活用し、現在置かれている状況について適切な行動をソリューションとして示す能力である。「機を見るに敏」「当意即妙」といった行動がおもうままになるときだと言えるだろう。

一方で月のほう、双子15度で描かれているのはある種の態度表明に近いものである。14度での肉体的な存在の限界を超越して行われた深いコミュニケーション。それを経たのちに求められることは、そうして得られたことがらのたしからしさを確認するということである。発見したものごとを客観的に見直すという作業が必要になってくるわけだ。その際に手助けとなるのは〈同志〉の存在である。交流する相手は絞られ対象を限ることにはなるが、開かれた心が求められることになると言えるだろう。

シンボルに登場する「オランダ人の子ども」が表しているのは、純真無垢で〈クリーン〉な心の状態と意見交換を希求する開放性である。ソーシャルな側面よりもより個人的な側面での充足を求めるのであれば、相手を選んだうえで密接で活発な人間関係に身を投じてみるとよいだろう。そうした営みが公的な行動についてもよい影響を及ぼし、現状の問題解決につながることに期待されたい。もちろんそれが、射手15度のキーノートに示されているとおり、今後の展開の予測はもちろんみずからの未来を創造することにも結びつくような、そういう半月にしてみていただきたい。
[太陽]
蠍15度「五つの砂山のまわりで遊ぶ子どもたち」
キーノート「人間の進化の高次のレベルに同調させる精神の探求の開発の初期段階」

社会意識の単純な極みにおける完全なる自己の無欠性の、あるいはあらゆる起こり得る偶発性に対応するその初期的な力量における人間の精神のシンボルである。他人と接触するうえでの手段としての心理的な能力の、また人が自分を見い出し得るいかなる状況における体験にも対し得る無限の能力の、劇化がここにはある。個人は自分の存在をとり巻く環境のなかで生じるいかなるものにもとり組むことができ、また価値があるとわかったいかなるものにも自分を捧げるよう決意できるのである。

キーワード:NAÏVETÉ(素朴、純朴、未熟、純真、無邪気)
ポジ:自分自身の新たな有効な様相を絶え間なく発見する天賦の才
ネガ:まったくの無目的な愚かさ

[月]
牡牛15度「頭に粋なシルクハットをかぶり、防寒のためマフラーを巻いて、男が嵐に勇敢に立ち向かう」
キーノート「社会的な野心によって促進させられた危機に直面する際に必要とされる勇気」

自意識の単純な極みにおける完全なる自己の無欠性の、あるいはあらゆる起こり得る制約もしくは困惑困難全体にわたっての生来的な優位性における人間の精神のシンボルである。自己のたしかな劇化が、あるいは人生において担うべき役割についての絶え間なく有効な自覚が、ここにはある。個人は体験のなかで生じるいかなるものも喜んで活用するが、そのどんなにわずかな部分からの口述も受容を拒絶するのである。

キーワード:SOPHISTICATION(洗練、精巧、詭弁)
ポジ:自身に潜在するより大きな力の不断の再発見から生じる最高の落ち着き
ネガ:あらゆるより深い衝動への顕著な無感覚および皮相的な利己心への完全な降伏

完全なる自己の無欠性――それが社会的な相において見られるか、自意識において見られるかの違いが、二つのシンボルの冒頭で対比的に記されている。自分が完全であるということ、すなわち誠実で高潔な品位を保有しているということが、社会的な認知を受けているという状態。それと自身の内的な確信として得られているという状態。この二つの対比が示されているわけだ。

太陽のほう、蠍15度で描かれているのは、そうした無欠性を自己資本として、それを認めてくれている社会のなかで存分にコミュニケーション能力を発揮している様子である。それはさながら砂山をほしいままにして遊ぶ子どもたちのようだ、というのがこの詩文の適切な解釈と言える。〈五〉という数字は完全性を表すものであり、つまり五つの砂山は自己の無欠性の象徴である。またルディアは〈五〉は最も創造的で洞察力に富んだ人間の精神を象徴するものと説明しており、遊戯的なコミュニケーションが示唆多い創造的な自己発見につながる可能性を示しているのだと読むことができるだろう。

かたや月のほう、牡牛15度で描かれているのは、幾分自己完結的で悲壮感さえ感じられなくもない男の姿だ。男は自分の信念にもとづいて直面しなければならない危機に臨んでいる。自分の内面にあるものが確固不抜であればあるだけ、その分風当たりは強くなるのかもしれない。しかしそのような状況であってもけっして自身の美しさを損ねるような振る舞いはしないという矜持が、その佇まいから漂っている。蠍15度の無邪気さとは相反した、誇り高く洗練された美学が、内的な確信からもたらされている。

先月の満月では自分の心の安定の追求がテーマだったが、今回はそうして得られた自分の心のありようを、どれだけ美しく力として示すことができるかということがテーマになってくると言えるだろう。表向きはそつなくソフトに見え、実際そのように行動できるであろうが、内なる信念が問われる局面に立たされる可能性があるということを念頭に置くとよい。慌てない。うろたえない。大切なことは胸のうちにしまって口にしないくらいがちょうどよい。かっこよく決めることをめざす半月にしてみていただきたい。
[太陽]
天秤16度「嵐のあとでボート乗り場が再建を必要としている」
キーノート「広大な無意識と自我意識とを一定してリンクし続ける必要」

一人格としての人間と自然のまったくの非人格的な力とのあいだに存在する皮相的で非友好的な諸関係のシンボルである。反転されたシンボリズムにおいて強調されていることは、リアリティの個々の段階を原初状態に復元するための全体にわたる秩序化の側における絶え間ない試みとしての宇宙の無欠性である。これは人間の努力の阻害や挫折というよりはむしろ新たな達成のための刺激であり、自身の有用性を凌駕するあらゆるものからの解放なのである。ここで含意されていることは純粋な個性にとっての課題である。

キーワード:RESPITE(小休止、中断、息抜き、延期、執行猶予)
ポジ:人生の頻発する非常事態に自己適性をもたらすことの喜び
ネガ:不活動の言い訳としてのフラストレーション

[月]
牡羊16度「日没の光のなかで自然霊が動くのが見られる」
キーノート「自然の目に見えない力という潜在能力に同調すること」

一人格としての人間と自然のまったくの非人格的な力とのあいだに存在する本質的で友好的な諸関係性のシンボルである。宇宙の無欠性はリアリティの個々の区分について言えば純粋な源泉に絶え間ない復帰を要求し、また普遍的な活動が万物に利便性と秩序を与えるよう絶え間ない分類と精査をもたらす。ここで含意されていることは自分というもののあらゆる特有の受容力の終わりなきリハーサルと展覧としての生命の舞踊である。

キーワード:INVIGORATION(活性化、鼓舞)
ポジ:努力の直接的な結実としての無限の機会とともにある単純な幸運
ネガ:本当の自身の興味において行動することの完全な不能についての妥当性の妄想

両者の冒頭はほとんど同じであり、「皮相的で非友好的」と「本質的で友好的」な諸関係(性)という鮮やかな対照性が示されている。主題とされていることは、人間個人の力がおよぶものごとやその範囲を圧倒的に超えている自然の力とどのようにつきあうのかということだ。無慈悲で情け容赦のない存在に否応なしに向き合わなければならないという現実――その際になにを頼みにすべきかが、この二つのシンボルでは対比的に描かれている。

太陽のほう、天秤16度では、その非情な現実、しかも繰り返したびたびやってくるような突発的な危機的状況を、自分をリセットする契機として受容する態度が示されている。そうやすやすと前向きになれるものだろうかと疑問におもわれるかもしれないが、事態への適応力は高いものが見られることだろう。無力感に苛まれ茫然自失となろうとも、まずは現実を直視すること。そしてそこで大きな力となるものは、自身の無意識という広大な能力の源泉である。再建・再生・再構築の、意欲も資本も方法も、すべてが自分のうちにすでに備わってあるはずだ。

一方で月のほう、牡羊16度で示されているのは、自分の内面よりはむしろ自然の側にそれらの手がかりを見い出すというやり方だ。危機的な状況を受容するということに加え、解決にその状況をもたらした存在の力をうまく利用していこうというアプローチである。実に日和見的ではあるが、無邪気とも言えるその姿勢は状況においてけっしてマイナスに働くことはないだろう。

前回の満月では長年懸案だった課題の抜本的な解決に向けて腰を据えてとり組む必要が迫られていたが、今回はもう少し緩くとらえて、自分の心の安定を追求することに傾いてもよいだろう。のんびりと心に補修を施しながら、先の展開は流れに任せるような半月にしてみていただきたい。