応神天皇の真の誕生地を隠した理由 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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応神天皇はやはり下関の吉母で誕生していた。ただし、この誕生地を秘密にしておく理由があった。記紀に正しく書くと国家機密を曝露することになるからである。今日まで普通に公開されている国際航路は、博多、壱岐、対馬から朝鮮半島や大陸に至る。逆に大陸から日本へのルートも逆に辿ることになる。対馬海流を横切るルートとなっている。今回、解明したルートは北西の季節風で海が荒れた冬期に限られるが、この風と対馬海流に乗り対馬や朝鮮半島、大陸から短時間で下関にたどり着くトンデモ無く高速な直線コースのものであった。海人族の宗像氏などが知る秘密ルートであった。後世の元寇がこの秘密ルートを利用していたら、あっと言う間に日本は占領されていたであろう。

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秘密ルート(赤、冬期限定、帰国コース)

誕生地を博多湾内陸部にした理由であるが、帰国ルートを通常航路とし、また熊襲の地を平らげて国内が安定しているのをアピールするためであろう。
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通常航路(遣新羅使など)


参考







平成26年9月23日の吉母、若宮神社のお祭りで、お祭りの準備をしていた氏子の方に応神天皇の誕生地について伺うと、無愛想に否定も肯定もされなかった。通常、境内にある神社の由緒書きも有りません。この応神天皇の誕生地伝承は観光目的として吉母バス停と毘沙ノ鼻の公園駐車場にある説明板のみで、この説明板にも※ 唯だ、吉母は理由(わけ) あって歴史上に隠された土地であったのである。 (※この事に関しては、別の資料に依る。)」と書いてあるだけです。多分、昔からの言い伝えで、応神天皇誕生地伝承のみならず、この秘密ルートに関わる歴史的事件は秘密にするのが神社の神事なのでしょう!

改めて考え直すと、海人族一般の常識として帰国(入国)ルートは秘密なのでしょう。遣唐使の渡海ルートなどでも、往路は博多、壱岐を必ず経由する資料が残っているが、復路については必ずしも明らかでなく、また朝鮮通信使など外国使節の入出国ルートも必ず壱岐、博多経由であるのは同様の理由からであろう。

後年ではあるが貞観元年(859)に、関門海峡の壇之浦の西側に三つの八幡宮が同時に創建されました。夷狄の脅威を相当意識していたのであろう。一つの神社の名が日本西門鎮守八幡宮であり、最も大陸に近い防衛拠点と認識されていた。当時、日本で唯一残存した防人軍団、豊浦団があった。


感想

余談であるが、魏志倭人伝での邪馬台国までのルートが正にこの通り、公式な入出国ルートになっている。つまり倭国内の機密保護が考慮されており、方向、水行、陸行の日数も魏国からのお客様が勘違いする様に邪馬台国の案内者が苦心したと考えてよかろう。邪馬台国が南方向にあると言うことは倭国が南方向に伸びていると認識され、九州島が例え侵略されても、東方向の本州が侵略から免れることが期待される。また、近畿と北九州によく似た地名が見られるが、わざと似せて侵略者を北九州に留める意図が有ったのかもしれない。

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混一疆理歴代国都之図は1402年に李氏朝鮮で作られた世界地図

日本人以外の日本に関する知識が如何に少ないかが分かる。これは魏志倭人伝の中の倭国に関する知識程度しかないことの証明です。如何に安全保障上の機密保護がなされていたか分かる。江戸時代末期、伊能図をシーボルトが持ち出そうとしたことが大事件として扱われたことが理解できる。


元寇の来襲も、この秘密のおかげで北九州、長門の周辺に限られ、また神風(台風)が吹いてくれた。秘密が無く航路が知られていたら、冬季に来襲し対馬海流と季節風に乗り、雪が吹き荒ぶ日本海側各地に元軍が来襲し、神風も吹かなかったであろう!