縄文人が弥生人に進化したと言う、考古学会の主張はおかしい | 日本の歴史と日本人のルーツ

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最近、考古学会では縄文人が進化して、少数の渡来系弥生人と同じ地域に居住して同じ弥生人種になったという説が台頭している(下記参照)。しかし、人類学(土井ヶ浜人類学ミュージアム)では、縄文人が進化しても渡来系弥生人と同じ人種になれることに賛成していない。

縄文時代からある貝輪が弥生時代にも有るのは、海人族との交流で貝が貨幣として通用しているためである。弥生遺跡と縄文遺跡が近いのは、生活出来る地形は共通であるからである。縄文時代から弥生時代まで連続して中国大陸の長江あたりの影響があれば、なおさら縄文人から移行した在来弥生人と渡来系弥生人の風俗は似ていておかしくない。

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弥生時代初期、在来弥生人(縄文人)と渡来系弥生人は明確に区別出来る。住む地域も異なっていた。元々から西日本は縄文人が少なく、ライフスタイルが違っていたので摩擦が起きなかった。

さらに弥生時代から古墳時代になったら、縄文系を含め従来の弥生人が進化して日本列島全体が古墳時代に同一人種になったであろか?今でも東日本、北海道、南西諸島に異差があること十分に説明しきれていない。

何故、考古学会はこんな変な仮説を最近、主張し始めたのか!実は、例の男性遺伝子YのD2は縄文人はほぼ80%持ち、それに対して渡来系弥生人はD2を持たないのに、現在ももぼぼ均一に20%から60%に分布していることを暗に根拠にしている。

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アイヌは80%、本州では20%以上、沖縄で60%程度あるが、中国大陸には存在しない。

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縄文人の縄文時代後期の最大人口密度160に対し、少ない西日本では最大24となっている。

縄文時代後期の人口密度は東日本に対し西日本は7分の1程度である。弥生時代の初期に男性遺伝子YのD2の割合がほぼ20%の分布になるためには、渡来系弥生人が東日本の縄文人の人口密度に対し、33分の1程度の人口密度で渡来して分布し、そのまま仲良く爆発的に繁栄して行くモデルを想定している。縄文時代末期の縄文人の人口は10万人程度であるから、渡来してくる弥生人は大雑把の総数で3000人で、後は国内で誕生し、一ヶ所に定住するとする。これ自体、奇妙な設定である。すなわち、①渡来系弥生人の渡来人口が少なすぎる、②仲良く共存して繁栄出来るのか疑問、③出生率や平均寿命を異常に高く設定する必要がある、さらに④近年まであった風習に、力のある男性が多くの妻を娶る一夫多妻制があり、D2を持っていない水田稲作を行う渡来系弥生人の男性の子孫が偏って増えることを忘れている。

この難問を解決する回答は、この後、古墳時代に大挙渡来する秦氏がD2を持っていることである。すなわち、縄文人と秦氏はルーツの中東では同族で無ければいけないことになる。信じ難い結論であるが、間違った見積もりではないと思う。


追加(2017.8.7、日本語の起源を参照、参考)
実は当時、縄文人も渡来系弥生人は共通の原日本語を喋って、話がつうじたのであった。


参考

縄文時代と弥生時代の連続性
縄文時代の遺跡は概して弥生遺跡の下からかあるいはその近傍にあることが多い。また、出土品を見ても縄文時代から続く貝輪と弥生時代の剣が一緒に副葬されてたりあるいはそれらが弥生時代の甕棺に埋葬されてたりしている。縄文時代に多用された文様は中国長江由来であることは過去に述べたが弥生時代に急激に発展した文化(水稲稲作・環濠集落・高床式住居・文様とあらゆるもの)も中国長江由来のものが多い。

これらから考えられるのは縄文時代は中国文化が長江からゆっくりと時間をかけて徐々にやってきて弥生時代は急激にしかも高度な文化が入ってきたことを意味する。よって縄文人も弥生人も元は同じ人種で同じ文化の人々であるから人も文化も早期に同一化したであろうしましてや弥生時代の渡来人は当時の先進的文化を持った人々であったろうから縄文人たちは歓迎したものだろう。縄文時代と弥生時代の集落が一緒に出土するのはそういったことを意味する。

ではどうして弥生時代に大量の人々が列島に渡来してきたのか?同時代の長江(呉越)は春秋戦国時代で呉が滅亡する時期と重なる。戦乱を避けてかあるいは滅亡後に新天地を求めてか海の向こうに活路を見出し渡来したものと推測する。もしかしたら呉国の指導層も一緒に渡来してきたかもしれない。「孫子の兵法で有名な孫武」は呉国の将軍だった。もしかしたら孫子の兵法を修得した者も渡来したかもしれない。事実弥生時代後期の九州地方では戦乱があったとみられる遺跡や出土品が豊富だ。

現在の歴史本は縄文人は弥生人(渡来人)に駆逐されたとか渡来人は朝鮮半島から来たとか語っているものが多いが見直しが必要な時期に来ているのではないかと思う。  (フェースブック、九州の古代史より)







この文献もD2を持たない稲作渡来人が相当前から渡来し、徐々に混血して連続的に弥生時代に入ると主張している。女性ばかりが渡来したなら問題無いが、民族闘争は男性の生存競争である。記紀神話でも渡来人である天孫は現地妻を娶っている。さらに、この主張は弥生時代から古墳時代への移行を考えていない。

遺伝子解析の結果、出雲千家の男系子孫のY染色体遺伝子のハプログループはD1b2であると確定したと、出所不明な話がGoogle検索に多数見かける。もしこれが正しいなら、秦氏系渡来人がD系統であった事の証明となる。すなわち、出雲を含む山陰地方は従来、縄文人も渡来系弥生人も少ない地域であったが、古墳時代前後に一時的に
秦氏系渡来人人口が増えた。この長が出雲大社の宮司である千家であり、秦氏系渡来人がD系統のY遺伝子を持っていた証明となる。

最終的な解釈は異なるが、山陰地方の出雲族はD系統であったと言うブログを見いだした。ここで、皇室は、第113代 東山天皇の男系子孫 複数名から採取された口腔内粘膜の解析により、 D1b(D-M64.1)に属するD1b1a2のD系統(D2の呼称がD1bとなる)と言われ、明治天皇も東山天皇の男系子孫 に属する、、とのことで記紀神話の通り、天孫、すなわち秦氏系渡来人の子孫であった。

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地方毎の分布(参考)、縄文系(DとC)に注目すると、山陰を含む中国地方が面白い。他地方ではDとCが揃って出現しているのに対し、中国地方にはCが無い。すなわち、中国地方では、縄文系と言うより古墳時代の秦氏系渡来人由来が卓越していると予想できる。さらにデータの蓄積が欲しい。

中国地方にCの出現が無い事を指摘したが、国外では中国大陸の少数民族の羌族がDを持つがCの出現が無かった(参考)。この民族がイスラエルから失われた支族の一つと認定されている(参考)。

注: もしも考古学会の最近の主張が正しいなら、天皇家は縄文時代から続く、紀元3000年以上の万世一系のお家柄となり、記紀神話、大和朝廷の成立時期、邪馬台国との関係など矛盾が出てくる。