対馬・壱岐から沖ノ島経由で長門への航海ルート発見 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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古代の中国や朝鮮半島からの帰路について新しい航海ルートを発見した。

特に671年に、唐は白村江の戦いなどの日本人捕虜2000人を返還しました。比知島まで来て返還したことまでは分かっていた(参考)。この比知島は防人が守る壱岐島であり、九州本土に上陸させていない!

唐国の使者の郭務悰は太宰府で交渉したが!実は、日本人捕虜は壱岐島から対馬海流に乗って、沖ノ島経由で直接、本州(山口県)に向かった。

百済遺民については、具体的な上陸地は下関市の室津・吉母で、滞在地は安岡であった(参考)。さらに日本海ルート(参考)で滋賀県の琵琶湖東岸に入植したと推定できる(参考)。

白村江の戦いの当時、天智天皇は長門国大津郡で指揮を取っていた!


参考

・山口県下関市の油谷湾に手長島があり、長崎県壱岐市の湯本湾に手長島がある。いつ頃に命名されたか不明ですが、少なくとも、この海域で活躍する海人族、すなわち宗像氏が命名したと推定される。湾の名前が湯本、油谷と「湯」「油」の頭文字を持つが、共に読み「ゆ」を持っている。

この2島間には安定した対馬海流が流れ、スムーズに航海が出来る。


壱岐の湯本湾の手長島から沖ノ島経由で油谷湾の手長島へ、スムーズな航路があった!朝鮮半島からの帰路についても、日本だけの秘密ではあるが、山口県の北浦海岸が窓口になった(参考)。

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手長島は日本では当該2島のみ存在し、その意味は2島が互いにつながっていることであろう

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・壱岐の湯本湾口の手長島

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・長門市の油谷湾内の手長島

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・湯本と油谷の頭文字、湯と油の読み「ゆ」は、由の転訛とすると「経由」の意味がある。「本」と「谷」については、本とは源泉、すなわち出発地、谷とは谷底、すなわち受け入れ地であるから、湯本から油谷に移動したことが理解できる。


・手長島が見える壱岐市勝本町にある天手長男神社と天手長比売神社の由来について、宗像大社の『宗像大菩薩御縁起』によれば、神功皇后の三韓征伐に際し、宗大臣(宗像大社の神)が「御手長」という旗竿に武内宿禰が持っていた紅白2本の旗をつけ、これを上げ下げして敵を翻弄し、最後に息御嶋(玄海灘の沖ノ島)に立てたという。天手長男(と天手長比売)の社名はこの「御手長」に由来するという。

神功皇后が三韓征伐から帰還したルートも、ここから長門(当時は穴門)に向かい、応神天皇が生まれたと考えている(参考)。

・比知島を朝鮮半島西南部の比珍島と考える説があるが、比珍島の新羅での発音が比知島になる保証が無く、また距離が離れすぎている。大体、新羅の勢力内の島に日本人捕虜や百済遺民を連れて上陸しても意味が無い!