ハニーちゃんがゆく! -2ページ目

ハニーちゃんがゆく!

ひたすら寝てる人 たまに遠くへ行く

令和5年11月20日参拝

常福院から南吉生家へ行くのに八幡さまを通り抜けで使わせてもらいました、というお話を。

他にも道はあるけどこれが一番近道だったのです。

南吉生家までの案内がセットなのも通り抜けは公式ルートと考えていいんじゃないかと思いますw



細かく言えば山車庫の横から入ってきたけど形式的に正面の鳥居から入った風で進めます。

|*・ω・) 貫が出てないから神明鳥居なんですね。
はじめはそんなこと気にもせず。



手水舎にかわいいタオルがかかってた。

花菱に二つ巴は西組、橘と三つ巴は義烈組。

岩滑地区の山車組です。



そんで狛犬がたくさんいるのね。

実は大きな社殿が八幡さま、

右の脇殿みたいのが神明社の拝殿というか中門というか、朝早すぎて開いてないけど戸が開くと神明社の賽銭箱が置かれた奥に社殿が建っています。



創建年代は詳らかではなく、元和年間(1615-23)の棟札を最古としています。

御祭神は応神天皇神功皇后宗像三女神

中山家略記によると「元は神明社が本社なりしが、中山勝時の岩滑を領せし時、伊勢神宮から御師 初穂の徴収に来れるより、中山氏これを忌み、自ら一寄進を以って八幡社を建設し、以て其初穂を謝絶せり。」

中山さまのやんちゃエピソードなの?✨

😆もっと詳しく知りたい!

御福車(西組)と八幡車(義烈組)


この辺の人からしたら普通なのかもしれないけどこの二社が境内社として並んでるのは熱い✨

 ㊧知立神社(三河二宮)  ㊨熱田神宮(尾張三宮)



お稲荷さんは当然の豊川吒枳尼真天✨



そして、愛知県に息づく秋葉信仰がここにも!

秋葉三尺坊大権現✨



いろんな自販機が増えてきてるけど消防団員募集中の広告は初めて見た😆



このあとはすぐ近くにある南吉生家を見学して常福院へ戻りました。
あ〜、半田は春まつりの時期ですね。
もしも元気があればどこかへ出没したかったけど起きれなかった ( ´︵` )

 
サムネイル


◆岩滑八幡社

愛知県半田市岩滑中町7-80

令和5年11月20日参拝

あれは美浜町の喫茶店だったと思いますが、本棚の新美南吉作品集を取って作者の生涯年表を読んだ。

生まれて間もなく亡くなった兄の名前「正八」と名付けられることから始まる波乱万丈な29年の人生。

さみしげな世界に温もりを探しているような空気感は大正から昭和の時代背景と複雑な生い立ちにあったのかも‥と心を打たれて数カ月後にゆかりの地を訪れることになるとは夢にも思わず。



岩滑(やなべ)とは成岩村と常滑村の合併で出来たなんとも難読な地名です。

半田をうろついた9月半ばに彼岸花の名所として有名な岩滑の矢勝川堤に辿り着けなかったとしょんぼりしてたら友達がくれた写真がこちら〜。



足元のタイルが案内板だった。

お目当ての常福院と南吉生家は同じ方面でとても助かる。



常福院は浄土宗西山派の寺院で本尊は阿弥陀如来。

永禄年間(1558-70)徳川家康の母方叔父にあたる岩滑城主中山勝時によって創建されました。

水野信元の妹(於大の妹でもある)婿となり岩滑城へ入った中山勝時がのちに中山城に居城を移したので跡地に寺を建てたということらしい。

山号は強そうな甲城山 (゜д゜)



「ごんぎつね」の冒頭から登場する中山さまとは中山勝時のことで、南吉は中山氏の子孫と家族ぐるみの付き合いがあったそうですよ。

中山城跡に新美南吉記念館が建っているというのもおもしろいご縁です。



中山氏に仕えた家老が植えたと伝えられる大ソテツ。

うちのソテツは見事に枯らして捨てるのにノコで刻んで袋に詰めて大騒ぎした思い出が ( ¯−¯ )



墓じまいコーナーの手前に建つ小さなお堂。



|ω・) 青面金剛が後ろ向きのサルみたいなショケラを持っているかわいい庚申塔でした。

石灰岩でしょうが屋根に守られて状態よし✨



石の阿弥陀如来ふっくらむちむち。



まだ時間が早いので近所を散歩しました。

常福院の斜め前に南吉の暮らした離れの跡(伊勢湾台風で倒壊してしまったそうです)。

生家とはおみおつけが冷めない距離です。



[ここでちょっと岩滑八幡社へ]


常福院から八幡社の境内を通り抜けて2〜3分で南吉の生家に到着しました。

中は意外と広いし半地下のお部屋があってなかなかいいおうちでした。

母親の病死、父親の再婚、生母の実家へ養子入りしてばーさんと二人暮らしからの出戻って実家の畳屋を手伝う、こんなに苦労した子供が学校の先生になるほど真っ直ぐ育つって奇跡じゃないかしら!



ひとまわりして常福院に戻り、御朱印は手漉き和紙の書置きでいただきました。

なんとなく貴重な和紙のような気がする。

「前は直書きしていたけど今は恥ずかしいから」とおっしゃる奥さんがかわいかったです。



こちらは〝直伝弘法〟の札所なんです。

お寺の奥さんによると、開創90年の時に先代が亡くなり、記念法要の合間に葬儀をするという大変お忙しかった記憶があるそうです。

※直伝弘法とは...
善通寺誕生寺貫主から四国直伝証をいただき大正14年(1925)に開創された知多四国とは別の八十八ヶ所。
なんと来年2025年は開創100年でないの!

 
サムネイル

南吉が遊びに来ていたのはお寺の境内が広かった頃で、常福院の整備が徐々に進み夏祭り会場が八幡社境内に移ってからは南吉の姿を見かけなくなったと先代の奥さんがおっしゃっていたそうです。

いろんな話を聞かせてくださり楽しい時間をありがとうございました。



常福院から車で10分程の北谷墓地という公営墓地に南吉の墓があると聞いてやってきました。



南吉は亡くなってからブレイクしたので親族はあわてて立派な単独墓を建てたそうです。

すぐ横に元の墓石らしきものが置かれていました。



養子になった新美家ではなくて渡辺家が改葬したのですね。

多蔵とは南吉の実の父です。

 

  法名 釈文成 俗名 正八 

  昭和18年3月22日歿 行年31才

  童話、詩、小説の作家 歿後名声高まる

  昭和35年12月 親子 渡辺多蔵   隆一



新美南吉は名誉などいらないから教師を続けたいと日記に書いていたそうです。

彼の作品で日本中の子供たちが学習していることを伝えてあげたい🙏✨



◼️甲城山常福院

愛知県半田市岩滑中町七丁目23

⬜︎北谷墓地

愛知県半田市柊町四丁目207-16

令和5年11月20日参拝

何度も近くまで来てるのに行きたくても行けなかった神社が阿久比にはたくさんあります。

途中でどこか寄ってもOK!と言われて阿久比神社を選んだのは土地勘ゼロでも重要な神社とわかる社名だもの〜。



延喜式神名帳に記載される知多郡三座の一つ 阿久比神社(あぐいのかみのやしろ) の比定社です。

尾張国神名帳には〝従二位英比天神〟と記載されています(延喜式と違って熱田さんがトップに載ってるやつ✨)。



社伝によると、第23代顕宗天皇の2年(だいたい5c)に開囓神(あきくいのかみ)を祀り創建されました。

その後、大化4年(648)に猿田彦大神天津彦命瓊々杵命を合祀、天平神護元年(765)には八幡大神宗像三女神が合祀されました。

延喜20年(920)英比丸(!)が60間四方の社地を寄進して社殿を造営、没後の天徳3年(959)に英比丸が合祀されて、平安時代末期は英比天神と称されたというわけです。



あら、阿形さんがもっこり狛犬よ ((๑ ́ᄇ`๑))

騒ぐ程ではないけどまあまあ人並みのもっこりだったような気がします。



社務所を訪ねたけど応答なし〜。

本務神社でいただくスタイルかもね。

御朱印はいつかまた‥ドクロ



赤い屋根の末社は左から秋葉神社、八幡神社、多賀神社、松尾神社、山の神。



とても立派な御霊神社は地域の戦歿者でしょうか。



現地でぼんやり見上げただけの大塔婆は、あとで写真をよく見たら祝聖文の一番上に〝南无阿弥陀仏〟とありまして、阿久比では毎年秋分の日に百万遍念仏が行われるそうです。

宗派を超えた信仰「阿久比谷虫供養」は愛知県の無形民俗文化財に指定されています。

  >南无阿弥陀仏 奉修 天下和順.日月清明.風雨以時.災厲不起.国富民安.兵戈無用.崇徳興仁.務修禮譲 虫供養宝塔成




◆阿久比神社

愛知県知多郡阿久比町阿久比北下川49

令和5年11月20日参拝

引き続き知多四国がメインの旅になりますが、阿久比で目をつけてた英比丸関連の天神社に途中で寄り道していきます✨

久松寺洞雲院へお参りして久松松平家の先祖が英比丸と知ってから天神さまに行く機会が増えてます。

前から好きなのもあるし、こうして狙って行くのもあり偶然もあり。

99.9%勝手に訪ねてるだけなのに見知らぬ土地との縁を繋いだつもりになって喜ぶのも楽しいじゃん。



創建は天暦9年(955)、英比の土豪菅原雅規(幼名英比麿)が、幼少期の住居跡に祖父菅原道真を祭神とした神社を建立したことにはじまります。



明治5年(1872)明治政府が社寺合併の方針を全国に発布すると、天満宮は明治11年(1878)6月に白沢字北根の八幡社に合祀されました。



『一日も早く元の場所でお祀りしたい』

郷人は昭和8年(1933)本殿跡地に石碑を設置するなどして跡地の保存に努め、

昭和63年(1988)念願の遷座式を行うことができたのでした。



阿久比では英比丸夫妻の像を代わり番こで祀ってく回り地頭という信仰が明治まで続いたそうで、英比丸が建てた天神さまは一入なのです✨



◆北原天満宮

愛知県知多郡阿久比町白沢天神裏5ー1


ーーーーーー✂︎ーーーーーー


・どーでもいいはなし

なんかここ何年かでたくさん知人に不幸があって全然元気出なかったんだよね。

そんで4/4は自分にたまたま禍い重なってドッカーンと落ち込んでた。

でぶなのにご飯も食べず一生懸命ふてくされてたらめずらしく友達からじゃかじゃか連絡あって気づいたら元気になってた🤣

いつも適当に生きてるからたまにドン底気分味わってある意味気分転換になったわ。

自分が努力しないで元気出るとか、なんなら落ち込んでたことも話してないのに明るく照らしてくれる友達は偉大。


☀️遠征2日目の朝〜。

6時半ごろ目が覚めて、どこへ行こうか考えてるとこに岡崎の友達から連絡が!

『今日はどこへ行くの?ここんとこ働きすぎてたから休もうと思ってるんだけど』

友達に激務を強いてた会社さんに感謝🙏

車でいろいろ連れてってもらえることになりましたぁ 🙌

 
サムネイル

令和5年11月20日参拝

1か所目は乾坤院です。

友達と合流してから前の日にうろちょろした東浦町の於大公園の話をしたら、

「‥そういえばしばらく行ってないな、火災の後どうなったか気になってたんだわ」と。



聞けば於大公園に隣接する乾坤院は水野家の菩提寺で、於大さんのお父さんなど四代の墓があるんだと(友達は墓マニアである)。



乾坤院は曹洞宗の寺院で本尊は大通智勝仏(胎内仏は釈迦牟尼仏)です。

室町中期の文明7年(1475)、緒川城守護を目的として初代城主水野貞守が建立しました。

乾坤とは方角でいうと緒川城から見た北西と南西、占いの出目では天と地の意味があることから山号を宇宙山としたようです。



中興の祖とされてる4代忠政は子供ら(於大・信元・忠守)の存在が大きかったのかなぁ。

のちに岡崎城主となった忠善が追善供養で建立したのが乾坤院の水野家四代墓。

同時期に建立した賢雄堂(御霊屋)は件の火災で焼失してしまったそうです。



ゆっくり歩きながら境内を見渡す友達さん。

「どんな火災だったの?」

「本堂が焼失してしまったんだよね」

それ以上は聞かなかったけど友達はホッと安心した表情してました。

鐘楼門と庫裏


乾坤院に初めて来たわたしにはどの部分が再建なのか全くわからないほど完璧なお寺でした🙏



庫裏


座禅堂


本堂


本堂が開いてないみたいだから水野家四代の墓へ行きましょうかグー

高台の一般墓地を抜けて、水野家のお墓は見えてるのになかなか辿り着けず〜 (ง ˙ω˙)ว 
「眺め最高だね〜っ!」 ←墓目線です



靴がどろんこなったじゃん、

墓好きじゃないと多分ここまで来ないと思うよ?



(n´∀`n) 上がって下がってやっとこ着いた。



忠善さんお墓を整えてくれてありがとう🙏

㊨六代城主水野忠守  ㊥忠元  ㊧岡崎城主忠善



その後ろは、

守信(忠守の子) ・信英(忠守の孫) ・忠善の娘、

手前はどなたでしょう🤔

そして、



|д゚) 東照大権現祖父!

四代城主水野忠政公のお墓は一段高いとこにある宝塔でした🙏

忠守・於大などの父


於大公園の別の場所には緒川城主三代(初代水野貞守・二代賢正・三代清忠)と一族墓もあったらしいんです。

知ってたら行きたかった‥( ;∀;)



こちらは地蔵堂なんですけど‥、サムネイルの足跡はここの敷石にあるものです。



なんと(゜д゜)

ここに四国直伝のセルフ御朱印があるじゃない。

今思えば押印してくるんだった。

乾坤院で御朱印をもらってないのですよ。



池の辺りに矢穴石が置かれていました!👀

城の石垣か、ただの庭石かは不明です〜。




◼️宇宙山乾坤院

愛知県知多郡東浦町大字緒川沙弥田4

令和5年11月19日参拝

浸水被害対策でしょうか、調整池が多い東浦。

16時まわってて夕陽を眺めてるヒマなんて無いのに次の札所は近いからと余裕ぶっこいてました。



Googleマップは師崎街道をすすめてくる。

知多半島の先っちょ〝師崎〟まで続く道よ。

南知多町のこと思い出しちゃうね *(๑¯◡¯๑)



てゆうか、10番から11番はたったの2kmって話だったのに、かなり迷って40分もかかりましたむかっ

もうすぐなんじゃない!?といったところでGoogleマップが狂い出して国道に連れていかれ、するとまた目的地が高台の方になる。



どーーーなってんの!?

あっちこっちとさまよって怒りの電源on-off むかっ

もう次の日でいいや〜とあきらめかけたところで安徳寺に到着 (´;ω;`)



時刻は16時52分です。

なんでいつも一日の終わりはギリギリなのか?



知多四国は納経所が17時までなのですよ。

ひと通りお参りして17時前にお寺を出たいの。



とりあえず納経所へ行かなくては!



閉門間際に申し訳ない‥ (つД`)゚゚

美人の奥さんひとつもいやな顔をせず対応してくださいまして、むしろ優しい笑顔に元気をいただき、感謝の気持ちでいっぱいです✨



さあ急げ、今からお参りです。

安徳寺は曹洞宗の寺院で本尊は釈迦牟尼仏。

こんな時間に恵心僧都のお釈迦さままで見せてとは言いません、閉まった扉に心からの合掌🙏



本堂の左側が弘法堂です。



弘法堂もガラス戸に鍵がかかり真っ暗‥。

全然大丈夫です✨

暗闇など一分もすれば目が慣れますので!



正直よく見えなかったけど心の目で見えてました✨

御生誕1,250年記念の巡礼だから稚児大師を拝めたのでOKってことにします!



なんとかお参りした‥三 (lll´Д`)ホッ



境内の隅にぽんと置かれた梵鐘がすごい大きさですけど!

昭和25年4月に檀信徒さんから贈られた鐘のようです。

伊勢湾台風は昭和34年9月。



石仏さんもたくさんいました。



みんな前かけしてるのよね。

檀家さんの優しさではありますが。



気になってめくることもありますが大概カビてたり、一度タランチュラ級の大蜘蛛がいたことがあって、よっぽどのことがなければめくらなくなりましたw



もう歩けない。

コミュニティバスが来るまで20分?

余裕で待つでしょ。

せっかちなのは頭の中だけで基本的にわたしぐーたらな人間なんです〜。



とはいえ歩道が狭くて危険な20分でした。

バスを待つ間ただ立ってるだけなのに何度ひかれそうになったことか。

暗闇で光るテープ必須だと思いました(持ってたのにどっか失くしてしまったなあ)。



藤江北→イオンモール東浦→刈谷駅南口とバスを乗り継いでいくわけですが、はじめ運転手さんに「刈谷駅へ行きますか?」と聞いたおかげで「乗り換えで使って」と乗継券をもらえたの。

隣の市まで5〜6kmも移動して100円ぽっきりなんて、何度も何度も合ってるのか確認したわ〜。




生路井

10番観音寺を出て割とすぐに生路井という史跡がありました。

日本武尊が弓弭(ゆはず)で石をどかしたら清水が湧き出てきたそうです。



長らく村の共同井戸として使われていたそうで、心の濁った人が汲みにくると水が濁ったという、なんか闇深い言い伝えね。



ちゃんとお社がありました。

はたして神さまはどなたかしら。

日本武尊、罔象女命、白瀧大明神‥?



立派な石碑は大正5年(1916)熱田神宮岡田譲宮司による撰文。

落ち着いたらゆっくり読もうとしててまだ書き起こしてもないのだ‥。





66. 11番 安徳寺

愛知県知多郡東浦町藤江字西之宮82


ーーーーーー✂︎ーーーーーー


・どーでもいいはなし

刈谷駅の電飾すごかった。

刈谷に泊まるの初めてで不安だったけど駅周辺は適度にお店あるし、コンフォートホテル刈谷がすごく清潔でいい宿だった。



令和5年11月19日参拝

16時近くなり、日が暮れてきました。

あせりしかないよね。



まるで新宿新都心のように上下二層構造になった道を歩いています。
立体的な地形を有効活用した道なんて方向音痴にはただの宇宙空間。
絶対に迷いたくない時間帯に油断は禁物っグー



ここで、10番さんの納経所は常照寺さんですよ〜、という親切な案内板が出てきました。



先に常照寺で御朱印をいただきます。



納経所の窓口にあった巡礼本を読んでみようと手をかけたところで御朱印帳が帰ってきた。

押印だけなのでとにかく早いのよ。

諸々割愛しますがとてもきれいなお寺でした。



観音寺の御朱印です。

記念印は‥弘法大師かなぁ。



10番観音寺はここからスグなので、ぼーっとしてると通り過ぎちゃいます。



|д゚) ここなのね!



元は道端の観音堂だったというから驚き。

|ω・) 立派なお寺ですよ。



お地蔵さまですね。



見てこの優しいお顔。

錫杖をお持ちではないようです。



お地蔵さまの指差す方向は観音堂✨

にっこり道しるべ✨



こちらも道しるべ。

矢じりが観音堂を向いてます。



案内板によると寛文3年(1663)生路村中として建立されてずっと庄屋支配&村中名義だったのが、昭和17年(1942)観音寺と改称して、現在では近隣の常照寺と神後院が交代で管理してるそうです。



びんづるさんとガラス越しのハイタッチ🤚

ハ〜イ🙏



お参りは小窓からだったのかしら?

(なんの写真  すでに記憶喪失)



本尊は聖観音菩薩です。

さすがに恵心僧都源信の聖観音(案内板より)はお厨子の中だと思います。



右端に弘法大師さん🙏



近くの神後院と伊久智神社も行きたかったけど、早足で通り過ぎます (つД`)゚゚

またいつかこの町に来るような気がします‥。




65. 10番 観音寺
愛知県知多郡東浦町大字生路字狭間2

令和5年11月19日参拝

寄り道ばかりしてたら15時まわりました。

あと2〜3か所行ってなるべく早く宿にチェックインしたいのに何やってんのよぅ 三 (lll´Д`)



明徳寺は浄土宗の寺院で本尊は阿弥陀如来。

創建は元中8年(北朝明徳2年=1391)、なんと法然上人の孫弟子が開いたお寺だそうです。

もとは明徳寺川ほとりにあったのが明暦3年(1657)の洪水で流失し、正徳4年(1711)現在地に移転となりました。



明徳寺川とは愛知県の中央で尾張と三河を分ける境川の下口を流れる支流です。

洪水の被害に遭われたのを教訓に、ちょっと高台で再建されたのかもしれません。

明徳寺川を渡ると水野家菩提寺の乾坤院があります。



伊勢湾台風って有名だけど‥

川が近いとはいえ台風でこんな浸水したの‥🫨



墓じまいコーナーは比較的新しい墓石ばかり。

昭和40年代とかさ。



明徳寺の御朱印はふんわり優しい墨書き。

記念印は幼い弘法大師と五葉松?

山門の写真に五葉松ありますねw



※5月5日は秘仏歓喜天の御開帳だそうです!

※要確認



64. 9番 明徳寺

愛知県知多郡東浦町大字石浜下庚申坊70番地

令和5年11月19日参拝

知多四国9番明徳寺のすぐ近くでした。

案内板を見た安心感から気が緩んで寄り道です。

決して時間に余裕はないはずなのに (´・ω・`)



子供たちがしゃがんでるとこの掲示板に〝大禮祭〟とお知らせが貼ってあったのです👀

これが〝例大祭〟なら寄ってなかったと思います。



稲荷神社にしては随分大きいですよ。

教育委員会の銘板によると、

天文6年(1537)はじめは天王社が建立されて、江戸時代の正徳6年(1716)には稲荷が二社並び、稲荷が主の神社となっていたそうです。

現在では宇迦之御魂神建速須佐之男神が相殿でお祀りされています。



そんなことより大禮祭のヒントは何かないかときょろきょろしてたら一枚の石碑に〝願主 鈴木なんちゃら右ヱ門荒木田ほにゃらら〟さらに〝天乃児屋根命12代孫にあたる天見通命37世〟ハィハィきましたね、

伊勢の内宮に奉仕した荒木田氏のことですね。

全部は読んでませんが、つまり荒木田氏の一族が移り住み創建した神社だと思います。



大正8年、三代の願いが込められた岡崎狛犬✨



こんな立派な狛犬を建てられたら子孫は地元離れられないねダッシュ



本殿はこんな感じ。



境内社もなかなかおもしろかったです。

こちらは八幡社。



富士大権現・立山大権現・白山大権現。

登拝記念碑ではなく神霊碑(ホンモノは一番左)です🙏

真ん中はのっぺらでわかりません。



多賀社に稲荷神社・津島神社の合殿。



そして、大峯山。



役行者でした。

もしかしたら三山の横に建ってた大きな神霊碑は大峯山の蔵王大権現なのかもしれません✨



津島地主社・五男三女社・天神社・大神宮社・大山祇社、明治時代の神社合祀で身を寄せることになった神々。



荒木田氏の神社と知ると神宮遥拝所も特別な感じがします🙏



橘が豊作でした *(๑¯◡¯๑)




◾️稲荷神社

愛知県知多郡東浦町大字石浜字下庚申坊8

令和5年11月19日参拝

尾張森岡駅近くで見かけた常夜灯。

すぐ横に〝史跡旧村木村常夜灯跡〟の碑があるので古いものではなく復刻かなんかでしょうか。



そんなことより参拝当日は村木神社の新嘗祭!

お囃子募集の貼り紙もあったので新嘗祭なら見学できるかも?とほんの少しだけ期待しました。



場 村木神社は妙法寺の近くでした。

柱に刻まれた水野家のお名前ズラリ。
これ見てなんとなくお土地柄わかる?



あの〜、すごく静かなんですけど〜。

新嘗祭は終わっちゃったのかな?



「この字なんだっけ!」って考えちゃった。

|д゚) きっと村の字がかぶっちゃうから邨の方を採用したんですね。



おしゃれです✨



さてさて、

尾張森岡って村木砦古戦場跡だったのです。

何も知らないと学ぶことが多くて楽しい 😇

 

村木砦の戦いとは‥

今川方に村木砦を築かれてしまった緒川城主水野信元が織田信長に救援を要請、天文23年(1554)1月24日信長はこの時初めて鉄砲を使うなどして一日で村木砦を奪い取った。

信長が実戦で初めて鉄砲を使ったのは長篠じゃなくて村木砦だったのですね。

村木神社は織田信長が本陣を張った場所で、

村木砦跡地には戦歿者を弔うために建てられた八剱社が今も残されています。



それはさておき、三河には〝おまんと祭〟という駆け馬があって、永禄3年(1560)織田信長が桶狭間の戦いで今川義元に勝利した際に各地から清洲城へ馬を走らせたのが起源だとか。

村木神社のおまんと祭は特に規模が大きく、保存会を結成して積極的な伝承活動に取り組んでおられるそうです。

ここがおまんとの会場!



御祭神は建速須佐之男大神すなわち牛頭天王(津島社)

品陀和気命菊里比咩神足名椎の神手名椎の神天照皇大神‥の諸神。

津島社の創建は詳らかではありませんが、延徳3年(1491)修復の棟札が残されているそうです。



八幡社は永禄4年(1561)時の緒川地頭を務める水野下野守信元の代官清水八右衛門家重を本願として創建、以来2〜30年に一度上葺き替えされた記録が残されています。

大正2年4月に東方100mから現在地へ遷座し村木神社と改称されました。



大正2年に合祀された末社たち。

   >村神社、妙見社、白山社、山神社、源太夫社

隣には御嶽神社もありました。



近隣から移された神社も含めて創建年代は相当古いわけですが、中でも津島社のお祭りはみんなが大切に守り続けてきたとして、古くから村の総鎮守は津島社!ということになっているようです。



社務所で直会してる氏子さんがいたので「御朱印とかあるんですか〜?」とお聞きしたら、

「やってないんですよ、考えておきまーす♪」ってものすごく前向きなお答えが返ってきた。

いやいや‥、無いなら無いでいいんです手

しばらくして、もう二度と行けないような遠くの神社から届く「御朱印はじめました」のお知らせほど悲しいものはない。




◼️村木神社
愛知県知多郡東浦町森岡天王西27