本州西端の龍王山から沖ノ島が見える!朝鮮半島から本州までの光通信ネットワークが構築出来る | 日本の歴史と日本人のルーツ

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下関市大字吉見の龍王山から蓋井島の西端の延長上の水平線に沖ノ島がある。

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拡大すると水平線上に沖ノ島がかすかに見えた。

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沖ノ島から下関市の龍王山までの距離は対馬や壱岐あたりに相当する(参考)。

目視で見通せると言うことは、狼煙通信で朝鮮半島、対馬、沖ノ島、下関市吉見の龍王山(その他、鬼ヶ城山、狗留孫山、華山、向津具半島も範囲内)が相互に通信可能であり、火の見山火の山などを中継すれば更に畿内の大和政権まで連絡可能であることを示唆する。

また、対馬海流の流れに任せ、この通信線上に沿って航海する船は、狼煙や光を灯台の光として利用出来る。すなわち、神功皇后は三韓征伐の後、この光に導かれて帰国したと思われる(参考)!遣唐使として中国大陸に渡った最澄も対馬から下関沿岸に着岸したのも同じルートか(参考)!

日本書紀によると、664年、対島島・壱岐島・筑紫国等に防人と烽火(とぶひ、狼煙のこと)を置き、筑紫に水城を築いた。665年と670年に長門城を築いた。当然、沖ノ島にも烽火台を置いて、長門にも中継したに違いない!


参考







狼煙通信の歴史(参考)
弥生時代、すでにのろしが通信に使われていた。
・664年、対馬・壱岐・筑後国に防人と烽を置いた。これは663年に朝鮮半島白村江で日本軍が唐・新羅の連合軍に敗れたことから国防のために備えた。
718年、『養老令』に烽の設置間隔や上げ方を細かく定めた。これによると烽は40里毎に置かれ、烽を担当する者を烽長・烽子と呼ぶと定め、また昼は煙を上げ夜は火を上げることも決められていた。
・8世紀、『風土記』によると、出雲国に5ヶ所、豊後国に5ヶ所、肥前国に20ヵ所の烽があったとされている。
・8世紀には、平城京に通じる高見峰(生駒山)、平安京に通じる牡山(おとこやま)に烽があったことが知られている。
天平年間(728~744)、新羅との関係が緊張した時、壱岐と出雲間に烽を置いて通信試験をしたことが伝わっている(山陰節度使沖ノ島、長門を経由したことが推定される)。
・740年、藤原広嗣の乱の時に、広嗣が筑前国遠賀郡下で烽を上げ、国内の兵を徴集したことが知られている。
・799年、太宰府管内を除き烽の制は撤廃された。その後烽制は衰えた。

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壱岐の最高峰、岳の辻212.9mの頂上の烽火台