新稀少堂日記 -940ページ目

第35回「吉里吉里人」(小説)

 第35回は、「吉里吉里人」です。井上ひさし氏は、多彩な作家です。世に出るまでに、挫折を繰り返しました。それが、多彩さの源泉でしょうか。しかし、彼を高く評価できるのは、彼の日本語に対する認識です。
 この「吉里吉里人」と、「東京セブン ローズ」は、テーマも、モチーフも、日本語に満ちています。特に、東京セブンローズは、旧漢字・旧かなづかいで、全編書かれています。共通点はそれだけではありません。いずれも、枕になりそうなほど厚いのです。「お厚いのがお好き」の方には、ピッタリです(一時、ミステリーのハードカバーで随分出版されました)。


 吉里吉里人は、 シナリオ・ライター時代にプロト・タイプを書いていたようです。ラジオ・ドラマだったようですが、聴いてはおりません。井上氏は、東北出身のためか、インタビューとかバラエティ番組に出ましたときに、若干の東北なまりを感じます。それを、逆に武器にしているようにも思えます。


 この作品も、東北弁を上手く使っています。そして、日本語とは何か、標準語とは何か。井上氏は、問いかけます。しかし、コメディです。部厚いハードカバーでありながら、大ベストセラーとなりました。「東京セブンローズ」と、表裏の関係を持つ作品であり、前駆的な作品です。一体として、読むことをオススメします。


 カミュの「異邦人」は、高校生によく読まれる作品ですが(文庫ベストセラーの上位に、常にランクされます)、この作品だけ読みましても、カミュを断片的にか理解できません。死後発表された「幸福な死」を読んで初めてカミュが理解できます・・・・。


 「東京セブンローズ」は、旧漢字・旧かなづかいで書かれていますが、抵抗感はありません。すんなり読めます。読み進むうちに、快感すら感じてきます。そして、この「吉里吉里人」も、・・・・。一体の作品です。

第34回「四国八十八ヶ所 五番札所 地蔵寺(じぞうじ)」

 第34回は、「四国八十八ヶ所 五番札所 地蔵寺(じぞうじ)」です。日本で最も多く制作された仏像は地蔵です。子が親より早く亡くなることは、最大の罪でした。仏教と儒教が接点を持った段階で、「順逆の不孝」となりました。




 一方、親が経済的に親の都合で、「間引き」することは、江戸期以前には多く行なわれました。戦後では、社会的・経済的な理由により、堕胎することは珍しくなくなりました。無事出産した赤ちゃんと、ほぼ同数だと言われて、数十年経ちます・・・・。


 道徳的な問題は別にしまして、親にも悔悟があります。それが「水子地蔵」としての供養です。そして、不本意に、病気・事故などにより、子をなくした親の救済のために、そして亡くなった子のために、追悼するのが地蔵信仰です。やはり、地蔵菩薩を本尊とする寺は、八十八ヶ所には欠かせません。


 今日の予定は、ここまでです。明日の日程を、わずかでも楽にするため、5kmほど離れている六番札所への道を歩きました。遍路道は県道ですが、路線バスが走っています。あと2kmというところで、路線バスに乗り、徳島駅前のホテルに向かいました。


 徳島の友人と、軽い食事と軽く酒を飲みまして、ホテルに戻りましたのが、9時前です。連ドラ「CHANGE」の第3回を観ました。展開が早いのです。朝倉(木村拓哉さん)が、はやくも総理大臣になります。傀儡(かいらい)総理となるか、それとも、自己の信念を貫き日本の政治をいかにCHANGEするかというのが、今後のストーリーでしょうか。

第33回「四国八十八ヶ所 四番札所 大日寺(だいにちじ)」

 第33回は、「四国八十八ヶ所 四番札所 大日寺(だいにちじ)」です。自動車移動での距離は7kmですが、起伏のある坂道ですので、遍路道はもう少し長くなっているものと思われます。それでも登りがありますが、峠に差し掛かりますと涼風が吹いてきます。




 遍路道では、五番札所の前を通り、若干の登りをさらに2km行きますと、そこが大日寺です。午後三時近くなっていますので、参拝客はほとんどいません。もっと早い時間帯についたものと思われます。


 初日ですので、疲れがピークに達しています。般若心経も、しどろもどろです。ここまでで4寺ですが、営業に熱心な寺と、淡白な寺の違いが痛感されます。お寺としましても、維持・修繕に多額の費用を要しますので、それも当然かと納得します・・・・。


 山すその寺ですので、独特の風情があります。ただ、日が暮れますと山道ですので、防犯灯もなく、真っ暗になると思います。さあ、五番札所まで、くだりです。少し、息を吹き返しました。

第32回「四国八十八ヶ所 三番札所 金泉寺(こんせんじ)」

 第32回は、「四国八十八ヶ所 三番札所 金泉寺(こんせんじ)」です。三番札所まで、約3kmです。さしたる距離ではありませんが、歩くことによる発汗は、増していきます。お遍路の全工程を通じ、ジャケット・ネクタイ着用を崩す気はありませんので、28度の最高気温でも、結構こたえます。


 さらに、デジカメのシャッターが引っかかるのです。ジャケットのポケットに入れていたためです・・・・。写真をあきらめ、般若心経を読経します。暑さのせいでしょうか、口が重くなっています。頭の方も、回転が悪くなっています。


 日陰が恋しいのですが、アスファルトで舗装された、さえぎるもののない、水田地帯をただひたすら歩きますので、腰掛ける場所もありません。ガイドブックを見るついでに、カメラをいじりますと、簡単に直りました。それは、既に三番札所を出た後です・・・・。


 歩いていまして気付くことですが、実にまめに表示がでています。分岐点に来ますと、ルート表示があります。このまま歩いて大丈夫かなと思い始めると、間もなく「四国のみち」の石柱(高さ1m弱)か、カーブミラーに「××札所○○寺のステッカーが貼られています。方向さえ、間違いませんでしたら、安心して歩けます。


 水分補給に気を付け、さらに歩きます。


(注)出発前に自宅で撮った写真です。ジャケット・ネクタイに、革靴で通すつもりです。単に、頑固なだけだと思います・・・・。

第31回「四国八十八ヶ所 二番札所 極楽寺(ごくらくじ)」

 第31回は、「四国八十八ヶ所 二番札所 極楽寺(ごくらくじ)」です。一番札所から、約1kmです。十番札所までは、最大でも6kmの間隔で続いています。徒歩でも、比較的移動しやすいようにとの配慮が働いているかと思います。それは、寺院選定にあたり、数合わせの要素もあるかもしれませんが、10km以上離れていますと、最初の段階から、断念する人も多いかと思います。


 事実上、午後出発となりましたので、境内の参拝者はほとんどいません。心静かに、般若心経を読み下します。「・・・色すなわちこれ空、空すなわちこれ空・・・・」。次第に暑さを増してきます・・・・。


 お寺には、山号寺号と呼ばれる「××山○○寺」と併称されます。ですが、一番・二番札所とも、狭い境内ですので、山号を必要とする実感がありませんが、習慣でしょうか。ですが、八十八ヶ所の札所の中でも、山肌にはりついた壮大な寺院もあります。


 次第に暑くなる熱気の中、次の札所へ・・・・

第30回「四国八十八ヶ所 一番札所 霊山寺(りょうぜんじ)」

 第30回は、「四国八十八ヶ所 一番札所 霊山寺」です。5月26日(月)、早朝に起き、7時過ぎのJRの各駅停車に乗りました。目的地は、坂東です。引田までの便ですので、徳島方面行きには、乗換えが必要です。引田駅の駅員に聞 きますと二時間半後でなければ、接続しないとのことです。短距離の高徳線で、二時間半待ちとは、すごいダイヤです。


 板東駅に着きましたのは、正午前です。急ぎの旅ではありませんので、「まあっ、いいか」というのが実感ですが、JRのダイヤ編成には疑問を持たざるを得ません・・・・。駅からは、徒歩十分ほど歩くと、到着します。


 発願(ほつがん)の寺です。お遍路にあたり、自分の願(がん)を表明し、「現世利益」をこいねがう出発地です。では、私に何か願いがあるかといいますと、何もないのです。二十年ほど前、先輩から、「お前には、欲望はあっても、煩悩はない」と言われたことがあります。その欲望も、ほぼ消滅しています。


 わずかな願いとしては、消極的ですが、寝たきりのように、みじめさの中で生き続けることです。こういう事態にならないことは、願の対象ともいえません。旅(遍路)の中で、自己の本質の一部なりと見極められたらと、般若心経を読み下して、読経しました・・・・。


 「・・・老死なく、老死をつくすこともなし・・・」。釈迦の説いた原始仏教体系の全否定です。語るのは、観世音菩薩です。仏典では一般的である「私は釈迦から、このように聞いた(如是我聞)」という手法は使われていません。


 始まったばかりです。


 

第29回「四国八十八ヶ所 旅立ち」

 第29回は、「四国八十八ヶ所 旅立ち」です。今日から、第一回目の遍路に出ます。徒歩で、徳島県内の寺をめぐる予定ですが、足の裏にマメをつくってしまうと思いますので、無理をする気はありません。次回は、今回中 断したところから、やはり徒歩で再開する予定です。


 一挙に40~50日かけて回るのがベストですが、強迫観念でお遍路するものでもありませんので、何回かに分けるつもりです。終わってみれば1,440km歩いたことになるかと思います。


 納経帳に朱印をもらうことは、考えていません。朱印の代金程度をお賽銭として入れるつもりです。また、通常のお遍路衣装も着る予定はありません。参拝者としての最低限の礼節を尽くすことと、般若心経のみ読経しようかと心がけています。

第28回「大阪府の5兆円の借金と、1,100億円削減計画」(時事問題)

 第28回は、「大阪府の5兆円の借金と、1,100億円削減計画」(時事問題)です。仮に、都心の一等地にある超高層マンションの一室を買ったとします。7,000万円と高額ですので、2,000万円を自己資金と親からの援助により、借入金は5,000万円に押えました。利息の平均は約3%です。年間110万円を払う計画です。


 初年度の年間利息は、150万円弱となり元金は増えるだけです。この返済計画では、金融機関からの借り入れは受けられません。これを10万倍しましたら、大阪府の現況にあたります。橋下知事の削減試案は、決して過激ではありません。負債の平均利息が2%としても、利払いだけで年間1,000億円必要です。


 極めて抵抗勢力が多いようです。それだけ知事の奮闘振りがうかがわれます。市町村長、労働組合・・・。そんな環境の中で、知事の削減案が実現しましても、5兆円の負債は減りません。第一歩を踏み出すことにすら、困難な状況にある知事に同情を禁じえません。決して過激な削減案ではありません。


 では、歳出カットだけでなく、歳入が増えればいいではないかと言う議論もあるかと思います。ですが、かっての右肩上がりの成長は期待できません。労働人口の減少は確実に税収の減少を招きます。


 橋下知事の最大の味方は、大阪府民です。大阪府民でないのが残念です。府知事、頑張ってください。


 かって松下幸之助氏は、講演で「歳出・歳入のバランスをとるのではなく、余剰金を増やせばよい。そうすれば数十年後には、余剰金の運用益だけで、全歳出をまかなえる」と発言されていました。時代は、松下氏の提案とは、逆方向に流れています・・・・。

第27回「カラマーゾフの兄弟」(文学)

 第27回は、「カラマーゾフの兄弟」(文学)です。昨年のベストセラーと言えば、「女性の品格」とか、「ホームレス中学生」が浮かびます。しかし、隠れたベストセラーとして、この「カラマーゾフの兄弟」が50万部売れたとのことです。NHKのシリーズ番組の中での紹介です。正直、「本当かな」というのが実感です。


 現代人の感性を持った画家としては、1800年をはさんで活躍したゴヤが思い出されます。宮廷画家でありながら、彼の絵には自己主張かがあります。当時の画家は、芸術家ではなく職人でした。そういう環境の中で、ゴヤは現代人に通じる感性を絵画の中に、表現しました。


 そして、ドストエフスキーです。モチーフとして、「親殺し」を扱っています。粗暴であるが、情熱に動かされる長男・ドミートリイ。冷静な知識人である次男・イワン。真面目な修道僧である三男・アリョーシャ。さらに、庶子との噂があり、一癖も二癖もあるスメルジャコフ。そして、魁偉かつ俗物である父親のフョードル。


 これらの人物が織りなす、一大長編小説です。読破するのには、かなり時間がかかります。正直、漫画すら読まなくなった世代の人々が、50万人も、読もうとしたことが信じられません。舞台は、19世紀ロシアですが、登場人物の持つ「心の闇」と「信念の光」は、現代そのものです。


 ドストエフスキーは、第2部を構想していたようです。敬虔な宗教者である三男・アリョーシャが、信仰に疑問を持ち、皇帝暗殺を企てるストーリーのようです。当然、当時のロシアで出版される内容ではありませんが、・・・・・。


 ドラマの後半は、父親のフョードルが殺され、長男ドミートリイが容疑者として逮捕される一方、庶子スメルジャコフが父親殺しを告白する展開となります。そして、最も有名な挿話「大審問官」が提示されます。中世にキリストが降臨する話です。大審問官が、キリストと知りながら、異端審問で処刑します。実際、そのような発言をした大審問官も実在したようです。


 この小説は、多様です。宗教をどう考えるか、家族はどうあるべきか、それ以上に、個人はどう生きるべきか。50万部売れたと言うことに、疑問を感じていますが、読まれていることは良いことです・・・・。

第26回「後期高齢者医療制度と、年金と、若者」(時事問題)

 第26回は、「後期高齢者医療制度と、年金と、若者」(時事問題)です。昨日の日本テレビ系列のニュース・バラエティで、辛坊治郎氏が「ニュースの要」で、75歳から80歳の老人たち(後期高齢者)の年金受領額について、取り上げていました。


 年間受領額が500万円以上の人たちが5%、300万円以上の人たちが55%、100万円以下の人たちが5%との分布になっているとの説明をしていました。私のサラリーマン経験からしまして、妥当な数字かと思います(100万円以下はもっと多いように思えますが)。支給額は、年金をはじめて受領する段階で決定されます。事情の変更で、減額されることはありません。いわば「既得権」です。


 制度の概要は、後期高齢者を別枠にすること、後期高齢者も一定金額の保険料負担をすること、終末期医療について医師の積極的関与が、大きな柱です。あなたが35歳未満であった場合、額面受領額及び、各種社会保険・税金を天引きした手取り額は、いくらになるでしょうか。


 額面の給与が、老人の受け取る金額と同額であれば、手取りは老人よりはるかに低くなります。医療・年金を下の世代が支えているからです。福田総理は、「若者は、このままでいいと考えているのでしょうか、ね」と、ブラサガリで記者団に語っていました。こういう背景があるからです。しかし、国民には前説が抜けていましたから、誰も十分に理解できなかったと思います。


 マスコミも、野党も、このあたりの事情を語っていません。テレビに映る老人たちの一部は、確かに100万円以下の年金で、全生活を補填しているかと思います。そういう人たちには、救済措置をとれば済むことです。しかし、半数以上の老人は、若者よりもはるかに低い社会負担で、高額と思える年金を受領しています。支えるのは、若者です。なにも、世代間抗争をあおっているのではありません。それが実態だからです。


 町ゆく老人たちのインタビューが流れていましたが、自分たちも負担しなければと、答えていましたのは、一人の老女だけです。関西弁で、「欲ドシイ」という表現があります。手取りベースで500万円以上の収入のある若者は怒る必要がありませんが、それ以下の収入である若者(現役世代)は、今一度考えてみるべきです。決して、世代間の抗争をあおるつもりはありません。


 終末期治療につきましては、後日別途書きます。