下関市 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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下関(市)しものせき、山口県西端にある市。古くは赤間(あかまがせき)(赤馬関)、馬関(ばかん)などとも称し、東の長島の上関(かみのせき)(上関町)に対し下関といった。1889年(明治22)赤間関市として県下最初の市となった。当時の人口3万0739人、面積5.36平方キロメートル。1902年(明治35)下関市と改称。1921年(大正10)生野村、1933年(昭和8)彦島(ひこしま)町、1937年長府(ちょうふ)、安岡の2町と川中村、1939年小月(おづき)町と清末、王司(おうじ)、勝山、吉見の4村、1955年(昭和30)王喜、吉田、内日(うつひ)の3村を編入。2005年(平成17)に菊川、豊田(とよた)、豊浦(とようら)、豊北(ほうほく)の4町と合併、北方に大きく広がり、面積は従来の3倍以上の716.15平方キロメートルとなった。人口28万0947(2010)。2005年10月中核市に移行。[三浦 肇]

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関門海峡と響灘(正面奥)

自然
市域の中部は鬼ヶ城(620メートル)を主峰とする豊浦(とようら)山地とその周辺の丘陵地や盆地が占め、北部と西部の日本海沿岸は入江の多い沈水海岸となっている。南部は瀬戸内海側の木屋(こや)川下流の小月平野を含み、響灘(ひびきなだ)沿岸の綾羅木(あやらぎ)川下流の川中平野や下関、彦島の丘陵地を含む半島状の地域を占める。瀬戸内海の西口である関門海峡を隔てて、北九州と相対しており、朝鮮半島へも近く、海陸交通の十字路にあたる。[三浦 肇]

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綾羅木郷台地遺跡と下関市立考古博物館

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土井ヶ浜人類学ミュージアム

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鬼ヶ城山(長門城)頂上からの響灘(北西方向)

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豊浦山神上寺、華山、豊田町大字江良

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狗留孫山修禅寺、豊田町

歴史
もっとも早く開けたのは綾羅木川下流平野で、弥生(やよい)時代の大集落跡である郷遺跡(国史跡)や長門(ながと)地方最大の前方後円墳の仁馬山(じんばやま)古墳などの遺跡が集中する。豊北町地域にある弥生時代の土井ヶ浜(どいがはま)遺跡(国史跡)からは多数の人骨が出土している。歴史時代に入って内海沿岸の長府が国府の所在地となり、海峡一帯は海関として重視され、長門城が築かれ、鎌倉時代には元寇(げんこう)に備えて長門探題が置かれた。室町時代の赤間関は大内氏の勘合船貿易の港町として栄え、近世には西海、内海の諸航路が集まり、長崎と並ぶ商港として「西の浪華(なにわ)」とよばれた。関門海峡は平安時代に壇ノ浦の戦いで平家が滅亡した地であり、また幕末には長州藩と外国艦隊の戦闘の場となった。[三浦 肇]

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関釜フェリー乗り場

交通・産業
1901年(明治34)山陽鉄道(山陽本線)の開通、1905年の関釜(かんぷ)連絡船の就航によって、大陸貿易の基地としての重要性を増し、さらにトロール船など遠洋漁業の母港としても発展した。北九州重工業地帯の一環として、彦島を中心に金属、化学、造船の諸工場が設置された。1933年(昭和8)には山陰本線が全線開通して山陽本線と連絡、1937~1941年の小瀬戸の締切りと大規模な埋立てにより、大漁港と商港と下関高架駅ができ、国鉄(現JR)関門海底トンネルが開通(1942)。第二次世界大戦では、二度の空襲で市街地の被災も大きく、戦後の大陸貿易の途絶によって、市勢も一時停滞したが、1958年(昭和33)関門国道トンネルの開通、1961年関釜連絡航路の再開、フェリーの就航によって大陸への基地の地位を回復、1973年高速自動車道関門橋の架橋、1975年山陽新幹線新関門トンネルの完成、新下関駅の開業など新交通時代を迎えて、県西部における商業交通都市としての機能を高めている。また内海側の長府沿岸には広い工場用地があって、金属、電力、造船などの諸工業が集積しつつある。一方、農業でも県下最大の野菜、花卉(かき)の生産地で、北部の豊北町地域では養牛、養鶏などの畜産、中部の豊田町、豊浦町、菊川町各地域では米作を中心に果樹、野菜栽培が行われ、とくに響灘沿岸の農村では温州(うんしゅう)ミカン栽培が盛んである。[三浦 肇]

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旧滝部小学校の本館、豊北歴史民俗資料館大翔館

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烏山民俗資料館、川棚温泉

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長府博物館、功山寺隣

文化財・観光
浄水場のある日和山(ひよりやま)公園やロープウェーで登る火の山公園からの海峡都市の景観、早鞆(はやとも)ノ瀬戸に架かる関門橋、先帝祭で知られる赤間神宮、室町初期の社殿(国宝)をもつ住吉(すみよし)神社、維新史跡の功山(こうざん)寺などの優れた文化財、国史跡指定の長門鋳銭所跡、高杉晋作(しんさく)墓、中山忠光(ただみつ)墓、市立水族館(海響館)など大型の行楽施設もあって、多彩な観光資源をもつ。そのほか、美術館、長府博物館、考古博物館、豊北歴史民俗資料館、烏山(からすやま)民俗資料館など文化施設が多く、下関市立大学も設置されている。港町下関らしいふぐ料理の味覚も全国に知られている。また、壁(かべ)島のウ渡来地、恩徳寺のイブキ、川棚(かわたな)のクスの森、小串(こぐし)のエヒメアヤメの自生地、木屋川のゲンジボタル発生地が国の天然記念物に指定されている。[三浦 肇]

『下関市史』全3巻(1958~1965・下関市)▽『下関市史 増補・改訂版』全13巻(1983~・下関市)』
「2万5000分の1地形図「下関」「白野江(しらのえ)」「六連島(むつれじま)」「安岡」「小月」「川棚温泉(かわたなおんせん)」「田部(たべ)」「小串(こぐし)」「西市(にしいち)」「滝部(たきべ)」「俵山(たわらやま)」「角島(つのしま)」「阿川」」