概念:佐藤篤代/西暦2016年後半(19)
西暦2016年8月29日:月曜日

後半(19)
【『A・Course・in・Miracles』
人間的理性欠落の特別性領域】

①【A・Course・in・Miracles】原文引用+『人間的理性欠落の特別性領域―
「ポケモンGO」による死亡事故ニュース。普通ならば遺族は企業の責任を追及する。こんな事故を多発させ、死亡事故が発生する可能性が高いゲームを世に送り出した企業の責任は重い、と。関連企業は無責任さと倫理・規範意識の欠落を追及される。こんなにまで当たり前で誰にも予想できることが罷り通ってきたこと自体が異常過ぎたのだ。現実的な人間というものは、悪意がない限り、こんな事故を多発させる、死亡事故の可能性が高いゲームなんか世に送り出せない。というか、こんな危険ゲーム、悪意で送り出したら結局自滅すると普通の人間なら判るんだよ。判断力、予測思考、倫理、道徳、規範意識、モラル、マナーの欠落し過ぎ状態がこのゲームがこの領域発祥ではないと証拠付ける』
②『ポケモンGO』による死亡事故が遂に発生。自分は道中安全に気を付けていても、『ポケモンGO』をやってる人間のせいで事故に巻き込まれる可能性の高さ。気を付けているのに、車や自転車や歩行者に突っ込んで来られたりして、危険行為に巻き込まれる立場に誰もがなる。自分だけ安全というわけにはいかない。『ポケモンGO』というゲームが世に出回っている限り、ゲームをやらなくても道中危険度が増し、命の危険すら通常よりも可能性がぐっと高まっているという事実、それに気付けないのはこの領域の人間ではない。この無法地帯のあまりにも酷い危険の可能性、それが判らないなら、この領域の人間ではない

【①【A・Course・in・Miracles】原文引用+『人間的理性欠落の特別性領域―
「ポケモンGO」による死亡事故ニュース。普通ならば遺族は企業の責任を追及する。こんな事故を多発させ、死亡事故が発生する可能性が高いゲームを世に送り出した企業の責任は重い、と。関連企業は無責任さと倫理・規範意識の欠落を追及される。こんなにまで当たり前で誰にも予想できることが罷り通ってきたこと自体が異常過ぎたのだ。現実的な人間というものは、悪意がない限り、こんな事故を多発させる、死亡事故の可能性が高いゲームなんか世に送り出せない。というか、こんな危険ゲーム、悪意で送り出したら結局自滅すると普通の人間なら判るんだよ。判断力、予測思考、倫理、道徳、規範意識、モラル、マナーの欠落し過ぎ状態がこのゲームがこの領域発祥ではないと証拠付ける』】

しばらくは去年西暦2015年の続きで「特別性」に関する概念記事を書いていく。この概念は徹底的に書き尽くし、どれほどエゴが「特別性」を死守し欺きの手段としているかをはっきりさせる。
今回西暦2016年後半概念(19)では、
【A・Course・in・Miracles】原書
second edition
ワークブックLESSON167
9
ワークブックLESSON132
6-(2~5)
を提示していく。
LESSON132の6は入れていた方がいいという判断から添え付けで入れている。
LESSON167は西暦2016年後半(11)から小分けに全提示する。

今回西暦2016年後半概念(19)では
『人間的理性欠落の特別性領域―
「ポケモンGO」による死亡事故ニュース。普通ならば遺族は企業の責任を追及する。こんな事故を多発させ、死亡事故が発生する可能性が高いゲームを世に送り出した企業の責任は重い、と。関連企業は無責任さと倫理・規範意識の欠落を追及される。こんなにまで当たり前で誰にも予想できることが罷り通ってきたこと自体が異常過ぎたのだ。現実的な人間というものは、悪意がない限り、こんな事故を多発させる、死亡事故の可能性が高いゲームなんか世に送り出せない。というか、こんな危険ゲーム、悪意で送り出したら結局自滅すると普通の人間なら判るんだよ。判断力、予測思考、倫理、道徳、規範意識、モラル、マナーの欠落し過ぎ状態がこのゲームがこの領域発祥ではないと証拠付ける』
という方向性の内容だ。
【A・Course・in・Miracles】原書引用箇所は直に特別性とは結び付いてはないが、②を説明するのに解りやすいと思ったので引用した。
この辺りでは原文引用よりも、②からの内容を書き尽くすことに重点を置いている。

西暦2016年段階では本物:佐藤篤代は【A・Course・in・Miracles】自体を歪みだと見ている。神概念も癒しも歪みだ。聖なるキラキラもエゴのアメだと疑ってかかる必要がある。
「student」、「teacher」は矛盾であり、歪みでしかない。
故に『神の使者』も同様だし、日本語訳で更に歪んでいる。
それを踏まえた上で引用するのは、知る過程では欠かせないからだ。

また、原書にある「brother」は「あらゆる他者、個々の存在」、「the Father」は「神」を指すが、これは特別性を温存するための理由で書かれている場合がほとんどだ。
歪みだが【A・Course・in・Miracles】の「the Kingdom」や「Heaven」は「the Kingdom=Heaven=神=神の創造物=神と1つの状態」だ。
「I」等の一人称はJesus(イエス・キリスト)。
「Friend」は「聖霊」。
少なくとも「learn」は「知る」、「teach」は「知らせる」と意味を取らなくては歪みにハマり込む期間がそれだけ長くなる。
故に「teacher」は「知らせる者」、
「learner」は「知るべき者」。
しかも「知らせる(段階の)者」、
「知るべき(段階の)者」。

「idol」とは「偶像」であり、「偶像」とは「あらゆる個々の存在」を指す。

「heal」とは「癒し」ではなく「エゴの思考システムに囚われた状態から正常な(『聖霊』要するに【終わらせる為に作用する何か】の)思考システムへの移行」というようような意味で捉えるべきだ。

【A・Course・in・Miracles】の『illusion』と『dream』は仏教で言う意味に近い意味。『世界は幻想』という意味。
『knowledge』は『知っている状態』位にとるべき。「知識」だと全体の意味がとれなくなる。

▽以下引用

LESSON167

9. What seems to be the opposite of life is merely sleeping.
When the mind elects to be what it is not, and to assume an alien power which it does not have, a foreign state it cannot enter, or a false condition not within its Source, it merely seems to go to sleep a while.
It dreams of time; an interval in which what seems to happen never has occurred, the changes wrought are substanceless, and all events are nowhere.
When the mind awakes, it but continues as it always was.

※生命と信じられている全ても死もエゴが作ったインチキだということ。知覚ある世界に存在するように見える全てが、エゴが作ったインチキだということ。

【A・Course・in・Miracles】
second edition:
WORKBOOK FOR STUDENTS
LESSON167
9
(P319)

LESSON132

6. …There is no world!
This is the central thought the course attempts to teach.
Not everyone is ready to accept it, and each one must go as far as he can let himself be led along the road to truth.
He will return and go still farther, or perhaps step back a while and then return again.

△以上引用

【A・Course・in・Miracles】
second edition:
WORKBOOK FOR STUDENTS
LESSON132
6-(2~5)
(P244)



【②『ポケモンGO』による死亡事故が遂に発生。自分は道中安全に気を付けていても、『ポケモンGO』をやってる人間のせいで事故に巻き込まれる可能性の高さ。気を付けているのに、車や自転車や歩行者に突っ込んで来られたりして、危険行為に巻き込まれる立場に誰もがなる。自分だけ安全というわけにはいかない。『ポケモンGO』というゲームが世に出回っている限り、ゲームをやらなくても道中危険度が増し、命の危険すら通常よりも可能性がぐっと高まっているという事実、それに気付けないのはこの領域の人間ではない。この無法地帯のあまりにも酷い危険の可能性、それが判らないなら、この領域の人間ではない】

25日
西暦2016年8月21日:日曜日
http://www.yomiuri.co.jp/national/20160821-OYT1T50001.html
ポケモンGOで路上駐車急増、通行に支障も
路上駐車が常態化し、通行に支障も出ている勾当台公園そばの市道(19日、仙台市青葉区で)=画像を一部修整しています
スマートフォンゲーム「ポケモンGO」に登場する人気キャラクター「ピカチュウ」を捕まえようと、仙台市青葉区の宮城県庁南側にある勾当台公園に人が集まり、周辺で路上駐車が急増している。
仙台中央署には、8月だけで「道を通れない」など、30件以上の通報があったといい、対応に追われる事態となっている。
同公園周辺では、以前から東側の市道などで路上駐車が目立っていたが、7月22日にポケモンGOが配信されると、より深刻となった。インターネット上でピカチュウが出現するとの情報が出回り、捕まえようと訪れる人の駐車が増えたためとみられている。
同署には「道路を通れず、迷惑だ」などの通報が1~18日に計35件寄せられた。1か所での通報件数としては、異例の多さだという。
同署では、パトカー2台を出動させるなど取り締まりを強化している。しかし、外に出ずに車内で遊ぶ人も多く、移動を促しても、すぐに元の場所に戻ってくる場合もあるため、抜本的な改善には至っていない。
周辺で客待ちをしていたタクシー運転手の男性(40)は「道幅が狭く、通れないことが増えた。節度を守って遊んでほしい」と話した。

西暦2016年8月21日:日曜日
http://www.yomiuri.co.jp/national/20160819-OYT1T50125.html
ポケモンGO関連110番53件、大学侵入も…静岡
国内での配信開始から22日で1か月を迎えるスマートフォン向けゲーム「ポケモンGO」に関連する110番の通報が、53件(14日現在)あったことが静岡県警のまとめでわかった。
県警通信指令課によると、内訳は駐車違反の苦情が31件、交通取り締まりの要望が7件など。駐車違反の苦情のうち14件は、珍しいポケモンが出やすいと話題になった静岡市清水区の三保地区周辺という。
また、三島市の順天堂大では、敷地内に男2人が侵入したとの通報も1件あった。三島署がいずれも20歳代の2人から事情を聞いたところ、ポケモンを捕まえる目的だったと判明し、注意したという。
一方、県警交通企画課によると、ポケモンGOに関連した交通事故は3件(14日現在)で、うち人身事故は1件だった。車やバイクを運転中や駐車中にポケモンGOをしていたことによる道交法違反の摘発は64件あった。
同課は「車だけでなく、自転車運転中や歩行中のスマートフォンの使用は、自分や周囲の人のケガにつながる恐れがあるので控えてほしい」と呼びかけている。

西暦2016年8月23日:火曜日
http://www.yomiuri.co.jp/national/20160823-OYT1T50099.html
ポケモンGOで交通違反、摘発1140件…大半脇見
警察庁は23日、スマートフォン向けゲーム「ポケモンGO」を巡る交通違反の摘発件数が、先月22日の配信開始から21日までの1か月間で、全国で1140件に上ったと発表した。
違反の内訳は、スマホの画面を見ながらの脇見運転が1085件で95%以上を占め、信号無視や一時停止せずに走行したケースもあった。ポケモンGOの操作が原因で起きた交通事故は79件で、うち人身事故は22件だった。
8月11日には、愛知県内で運転中にポケモンGOをしていた男性の車が横断中の自転車をはねる重傷事故も発生。警察庁の担当者は「スマホを見ながらの運転は非常に危険。絶対にやめてほしい」と話している。

西暦2016年8月24日:水曜日
http://www.yomiuri.co.jp/national/20160824-OYT1T50112.html?from=ycont_top_txt
運転中「ポケモンGO」で死亡事故…全国初
徳島市の県道で23日夜、スマートフォン向けゲーム「ポケモンGO」をしながら運転中の軽ワゴン車が歩行者2人をはねる事故があり、1人が死亡、1人が重傷を負った。
警察庁によると、ポケモンGOの操作が原因で死亡事故が起きたのは全国で初めてという。
徳島東署の発表では、事故は23日午後7時25分頃、同市方上町弁財天の県道で発生。軽ワゴン車が道路を歩いて横断中の女性2人をはね、同市北山町、美容師中西幸子さん(72)が搬送先の病院で死亡、知人のパート従業員(60)が腰の骨を折るなどの重傷を負った。
同署は車を運転していた同市南二軒屋町の男(39)を自動車運転死傷行為処罰法違反(過失運転致傷)容疑で現行犯逮捕した。「ポケモンGOをしていて、前をよく見ていなかった」と供述しており、容疑を同致死傷に切り替えて調べる。
現場は直線道路で、衝突前にブレーキを踏んだ形跡はなかった。
以上ニュースから引用

(加筆ニュース)
そして更にもう一件の死亡事故。

西暦2016年8月26日:金曜日
http://www.yomiuri.co.jp/national/20160826-OYT1T50054.html
「ポケモンGO」死亡事故2例目…女性が被害
愛知県春日井市で11日、スマートフォン向けゲーム「ポケモンGO」をしながら運転していた男の車に女性がはねられ、その後死亡していたことが分かった。
車を運転中のポケモンGO使用に伴う死亡事故は、23日の徳島市での事故に続いて2例目とみられる。
県警春日井署によると、春日井市藤山台の路上で11日午後7時45分頃、自転車で横断歩道を渡っていたベトナム国籍の女性(29)が、岐阜県土岐市の会社員の男(26)が運転する軽乗用車にはねられた。同署は、自動車運転死傷行為処罰法違反(過失運転致傷)の疑いで男を現行犯逮捕。女性は頭を強く打つなどして病院に運ばれたが、25日に死亡した。
同署によると、男はポケモンGOをしながら運転していたが、充電しようとして脇見をした際に事故を起こしたとみられる。男はその後釈放され、同署は、容疑を過失運転致死に切り替えて詳しく調べている。
以上ニュースから引用

これが『ポケモンGO』というゲームが世に配信されたことによる現実的な結果だ。注意力が著しく奪われるゲームを外で移動しながら行うという必須行為は、必ず事故やトラブルを引き起こすという結果は最初から出ていて、開発段階から予期もできる。故に死亡事故が発生する可能性が高いと必ず予想できる。
最初から予期できる、死亡事故の可能性が高い、違反や事故を多発させ、迷惑行為で社会を混乱に陥れる種類のゲームを開発配信した関連企業全ての企業責任は必ず問われる。関連企業の社会的責任追及は避けられない種類だったんだよ、最初から。世界が現実ならばな。

普通ならば遺族は企業の責任を追及する。こんな事故を多発させ、死亡事故が発生する可能性が高いゲームを世に送り出した企業の責任は重い、と。関連企業は無責任さと倫理・規範意識の欠落を追及される。
こんなにまで当たり前で誰にも予想できることが罷り通ってきたこと自体が異常過ぎたのだ。
この領域ではあり得ない。死亡事故が発生するまで『ポケモンGO』などという危険ゲームがゴリ押しされるなんて。

現実的な人間というものは、悪意がない限り、こんな事故を多発させる、死亡事故の可能性が高いゲームなんか世に送り出せないんだよ、【異世界】。
というか、こんな危険ゲーム、悪意で送り出したら結局自滅すると普通の人間なら判るんだよ。
それでもゴリ押しするから【異世界】なんだよ、この『ポケモンGO』は。

自分は道中安全に気を付けていても、『ポケモンGO』をやってる人間のせいで事故に巻き込まれる可能性の高さ。気を付けているのに、車や自転車や歩行者に突っ込んで来られたりして、危険行為に巻き込まれる立場に誰もがなる。自分だけ安全というわけにはいかない。
『ポケモンGO』というゲームが世に出回っている限り、ゲームをやらなくても道中危険度が増し、命の危険すら通常よりも可能性がぐっと高まっているという事実、それに気付けないのはこの領域の人間ではない。
この無法地帯のあまりにも酷い危険の可能性、それが判らないなら、この領域の人間ではないんだよ!断言できるくらいにな!

西暦2016年8月24日:水曜日
http://www.yomiuri.co.jp/national/20160824-OYT1T50128.html
詐病で給与、
不正に605万円…
神戸大職員解雇
神戸大学は24日、40歳代の男性事務職員が2014年9月以降、病気と偽って出勤と休みを繰り返し、休んだ420日分の給与と、傷病手当の計約605万円を不正に受け取っていたと発表した。
31日付で懲戒解雇する。
発表では、職員は大学院農学研究科に勤務。消化性潰瘍を患っているとの医師の診断書を大学に提出していたが、傷病手当の事務処理を担当する共済組合が、病院から診療報酬明細書が届かないのに不審を抱いて調べ、今年6月に発覚した。
調査に対し、職員は診断書の偽造を認め、給与と手当を全額返納したが、理由については「よく覚えていない」と話したという。
以上ニュースから引用

北隣【近藤】(仮:50才前後公務員教師女:西暦2016年)は、今日、西暦2016年8月25日:木曜日で1ヶ月を越えるが、1ヶ月以上もろくに(多分出勤は全然していない)出勤せず、後、平日は2日しかない状態の中で、いつ新学期の準備するんだ?もう新学期の為の会議尽くしで休んでられない筈だが。ていうか、夏休みの登校日は?完全に行ってないが。夜も含めた補導的な見回り業務は?一切やってないが。通常業務すら支障があるのは確実だ。新システムの為の研修や会議は?全く行ってないが。やらないわけないだろ。しかも相当沢山ある筈だろ、西暦2016年にはこれまでにない新システムが沢山成立しなくちゃいけないのに。更に今年西暦2016年は『ポケモンGO』の安全喚起の為の業務(見回り、会議も含め)が通常業務以外に増えてる筈だが?
なのに、外出は旅行か買い物位のちょっとの時間であとはずーっと家にいるって、あまりにも異常だ。学生が長期休みの度にこれって本当、現実的では無さすぎる。仕事も生活も成立するわけがない。
それ以前に、上記のニュースで判るように、1ヶ月以上サボりながら給料貰ってたら不正だから。確実な不正状態だよ。給料の出所が税金だから更に相当な大問題だよ。懲戒免職だよ、この領域で、世界が現実ならばな。

本当に【異世界】の異常なゴリ押しにはあきれ果てる。世界構造がかけ離れすぎてるにも程があるだろ。
こんな異常な【異世界】としか言いようがない関連づけ、本当にいい加減にしろ!
なんて迷惑なんだ。
世界が違いすぎるにも程がある!
フィクションだ、北隣【近藤】(仮)は!
こんなの現実だと言えるわけないだろ!
物理的法則が本当に皆無な【異世界】なんだとしか言いようがないわ!!
近接向い合せ風呂や近接地を彷徨いて(異常物音を立てて)関連づけるために躍起になってサボるな!!また食事(普通の時間ではない)狙って帰宅しやがって、気持ち悪いんだよ!何故食事までもタイミングを狙われなくてはならないんだ!ていうか、夕食時パートより早すぎる帰宅繰り返してたのは食事狙っての帰宅だったんだ、やっぱり。近接地を無闇に彷徨いたら不審者か犯罪だって言ってんだろ!普通は彷徨けないくらいに近接してるからだ。彷徨く理由がほぼ一切ない場所なんだよ、近接地は。物音立つだけで違和感有りすぎて犯罪なんだよ。更に風呂が向い合せ近接してるから余計に!風呂場の無闇に出入り過多は犯罪目的か嫌がらせか異常者にしか見えないんだよ!
この家だって、【実母】が年に数回(あって1~2回位だろう)レベルで草むしりをする位(北隣不在時)で、近接地なんか家族の誰も行きもしない。後は台所に備えついた外から取り出せるゴミ箱から週に2回朝にゴミを捨てるために取り出す為くらいだ。これはこの家が建った時からで、後から近接して建てた北隣は何も言えない。因みに北隣には近接地にはリビング(南東部)と風呂(南部)しかない。行く理由もないし、まず狭過ぎるしじめじめして虫が沢山いそうなのに誰も行きたがらない。風呂場も、風呂掃除と風呂を入れるのと入る以外に出入りする理由など滅多にない。あのさ、靴は普通は外で洗うんだって言ってんだろ。風呂の排水口が砂利だらけになるし、汚れる。
だから北隣【近藤】(仮)は近接地で異常に物音立てすぎて、殆ど犯罪レベルでしかないんだよ。現実的な普通の人間は隣との近接地は極力避ける。

【異世界】ゴリ押しすんな!
規範意識、倫理、道徳、モラル、マナー、実質性が著しく欠落した領域の関連づけは本当に迷惑だ。

北隣【近藤】(仮)は完全に『負の遺産・レガシィ』としか言いようがない【犯罪ストーカー近藤】の巣窟。北隣設定全てに『負の遺産・レガシィ』がついてまわり、【犯罪ストーカー近藤】の一部というレッテルは免れない。北隣設定で世界を作る限り、やることなすこと【犯罪ストーカー近藤】に帰する。
そのくらいに『負の遺産・レガシィ』の世界構造のかけ離れすぎは顕著すぎていて、打ち消すことができない。北隣設定を捨てない限り直に付きまとい続ける『負の遺産・レガシィ(古い先人のシステム)』の異常性。

【A・Course・in・Miracles】で言う『知覚ある世界の全てはエゴが作った幻想』という主要概念。仏教で言う意味に近い幻想。


以下は『実践理性批判/カント』より引用。何度も言うが、カントは【人間レベル】の概念の基本を提示するために引用しているだけであり、人間性が欠落し過ぎた獣と同等の人間とは言えないような、より初期にエゴが作った世界へ向けて、概念を進化させる為にだけ提示している。少なくとも「人間」と言えるくらいに世界の概念を進化させろとエゴに言っている。そして最終的にこの領域の概念まで世界をやり直して作り直せと言っている。それがエゴとは正反対の作用【A・Course・in・Miracles】で『聖霊』と歪められた【終わらせる為に作用する何か】の目的であり、この領域の概念により、より前に作られた世界の主人公達の特別性の誘引を崩しているのだ。
『ポケモンGO』とか、そんな異常なゲームはこの領域の人間は絶対に作らないと知れ。あまりにも原始的なレベルの概念の領域へ向けての提示にすぎない。

(『実践理性批判/カント』P154~160より引用)
『およそ道徳的法則による意志規定の本質をなすところのものは、―その場合に意志は、自由な意志として規定せられる、従って意志は、感性的衝動の協力を求めないばかりでなく、かかる衝動を拒否し、また傾向性が道徳的法則に反するおそれのある場合には、およそ一切の傾向性を挫折せしめ、道徳的法則だけによって規定せられる、ということである。それだから動機としての道徳的法則の作用はまったく消極的であり、またこの動機は消極的なものとしてア・プリオリに認識せられ得るのである。およそ傾向性と感性的衝動とは、すべて感情にもとづき、また感情に及ぼすかかる消極的作用は(傾向性を挫折せしめることによって)これまたそれ自体感情だからである。そこで我々は、意志の規定根拠としての道徳的法則は、この法則が我々の傾向性を挫折せしめることによって、苦痛と呼ばれ得るような感情を惹き起こすことをア・プリオリに洞察できるのである。そして我々はここに、ア・プリオリな概念にもとづいて快・不快の感情に対する認識(ここでは純粋実践理性の認識である)の関係を規定し得た最初の、そしてまた恐らくは唯一の事例をもつのである。一切の傾向性は相集まって(我々は、これら一切の傾向性をなんとか体系らしいものに仕立てることができる、そうするとこうして総括された傾向性の満足は、自分自身の幸福と呼ばれる)自己中心的な"我執"をなすのである。ところで我執は、"自愛"、すなわち何ものにもまして自分自身を偏愛する"身びいき"の我執であるか、さもなければ"自惚れ"の我執であるか、二者のうちのいずれかである。前者は、特に"自己愛"と呼ばれ、また後者は"独りよがり"と呼ばれる。純粋実践理性は、もっぱらこの自己愛を挫折せしめる、とはいえまた自己愛を[人間に]自然的なものと見なし、道徳的法則に先立って我々のうち[心]に萌すような自己愛であれば、これを道徳的法則との一致という条件に制限するだけである、そしてこの場合には、自己愛は"理性的自己愛"と呼ばれる。しかし純粋実践理性は、いま一つの自愛すなわち独りよがりを、徹底的に"打ちのめす"のである、この偉がり[自己尊重]の念に発する一切の要求―換言すれば、道徳的法則との一致に先立つ要求は、すべて無効であり、正当な権能をいささかももつものではないからである。およそ道徳的法則と一致するような心意の確保こそ、人格の一切の価値をなす第一の条件であり(このことについては、いずれもっとはっきり説明することになるだろう)、またこの条件に先立つ思いあがりは、すべて虚偽であり、道徳的法則に反するのである、偉がりという自己尊重への性向も―それが感性だけにもとづく限りでは、―やはり道徳的法則によって挫折せしめられる傾向性の一つである。しかしまた道徳的法則は、それ自体として積極的な何か或るものである。道徳的法則は、知性的原因性としての自由の形式であるから、この法則は我々のうちにある主観的な対立物としてのこれらの傾向性に反対して、独りよがりを貶しめると同時に、実にそれ自身が"尊敬"の対象となるのである。そればかりでなく道徳的法則は、独りよがりを"打ちのめして"これを遜らせることによって、最大の"尊敬"の対象となり、従って或る積極的感情―換言すれば、経験的起源をもたないような、そしてまたア・プリオリに認識されるような感情の根拠にもなるのである。それだから道徳的法則に対する尊敬は、知性的根拠によって生じるような感情である。この感情は我々がまったくア・プリオリに認識し得ると同時に、またその必然性を洞察し得る唯一の感情なのである。
我々が前章で知ったことは、次の二件である。すなわち―第一に、およそ意志の対象として道徳的法則よりも"前に"出現する一切のものは、実践理性の示す最高条件としての道徳的法則そのものによって、無条件的善という名で呼ばれるところの意志の規定根拠からすべて排除せられる、ということである。また第二は、格律[主観的原理]をして[客観的な]普遍的立法たるに堪えしめるところの純然たる実践的形式[格律の立法的形式]は、まずそれ自体として絶対的に善であるところのものを規定し、あらゆる点において唯一の善であるような純粋意志の格律を確立する、ということである。ところで感性的存在者としての我々の自然的本性の在りようが、次のようなものであることは、我々のよく知るところである、すなわち―欲求能力の実質(期待にせよあるいは恐怖にせよ、とにかく傾向性の対象をなすもの)がまず頭をもたげると、パトローギッシュに[感性的動因によって]規定される自己は、我々の格律によるのではとうてい普遍的立法たるに堪えないにも拘らず、あたかも我々の全自己をなすかのように、自分のさまざまな要求を先に持出し、これをまず第一に充たされねばならない根源的要求として認めさせようとするのである。我々の意志の主観的規定根拠を、意志一般の客観的根拠たらしめようとするかかる性向は、"自愛"と名づけられてよい、またこの自愛が、自分を立法的であるとし、自分自身を無条件的な実践的原理に仕立てようとするならば、そのような自愛は"独りよがり"と呼ばれてよい。ところが道徳的法則―すなわちそれのみが真に(つまりあらゆる点で)客観的であるところのこの法則は、自愛が最高の実践的原理に及ぼす影響をすべて排除し、自愛の影響力という主観的条件を指定するところの独りよがりを徹底的に挫折せしめるのである。ところで我々が独りよがりを、我々の判断において挫折せしめるところのものは、同時にまた我々を謙抑ならしめる。それだから何びとにせよ、彼の自然的本性の感性的性向を道徳的法則と突き合わせてみると、この法則は必然的に彼を謙抑ならしめるのである。或るものの表象が、"我々の意志の規定根拠として"、我々の自己[に関する]意識において我々を謙抑ならしめるならば、そのものは―それが積極的でありまた[意志の]規定根拠である限り、―それ自体だけで"尊敬"の感情を喚起する。それだから道徳的法則は我々にとって、主観的にもまた尊敬の[感情の]根拠である。ところで自愛のうちに見出される一切のものは、すべて傾向性に属する、そしてまた一切の傾向性はすべて感情にもとづいている、従って自愛のうちに含まれている一切の傾向性を挙げて挫折せしめるところのものは、まさにこのことによって必然的に感情に影響を及ぼさずにおかない。そこで我々は、道徳的法則が傾向性と傾向性を最高の実践的条件たらしめようとする性向すなわち自愛とを、最高の立法への参与からことごとく閉め出すならば、我々は道徳的法則が感情に或る種の作用を及ぼす可能性をア・プリオリに洞察し得る理由を了解できるのである。この作用は、一方ではもっぱら"消極的"であるが、しかし他方では―それも純粋実践理性が[人間の傾向性に]制限を付する根拠について言えば、"積極的"である。しかもそのためには、実践的あるいは道徳的感情などと名づけられるような特殊な感情が道徳的法則に先立ってこの法則の根底をなすというような想定をいささかも必要としないのである。
感情(不快適の)に及ぼすこのような消極的作用は、およそ感情に与える一切の影響ならびになんらかの感情一般と同じく、"パトローギッシュ"[感性的動因によるもの]である。しかし道徳的法則の意識から生じた結果としては、従ってまた可想的原因―すなわち最高の立法者としての純粋実践理性の主観[あるいは主体という可想的原因]について言えば、傾向性によって触発された理性的主観[理性的存在者すなわち人間]におけるこのような[消極的]感情は、なるほど謙抑(知性的軽蔑)[知性において自分自身の無価値を認めること])と呼ばれるが、しかしかかる謙抑の感情を生ぜしめた積極的根拠であるところの[道徳的]法則について言えば、この感情は同時に道徳的法則に対する尊敬である。およそ道徳的法則に対しては、いかなる感情も起きるわけではないが、しかし理性の判断においては、道徳的法則は抵抗を排除するから、こうして障害を取り除くことが取りも直さず[意志規定の]原因性を積極的に促進することと同一視されるのである。それだからこの[謙抑の]感情は、また道徳的法則に対する尊敬の感情でもあり、こういう二通りの根拠[消極的には謙抑の、また積極的には尊敬の感情という]にもとづいて"道徳的感情"と名づけられてよい。
それだから道徳的法則は、純粋実践理性によって行為の形式的な規定根拠であるばかりではなく、また善および悪と呼ばれる行為の対象を実質的にも―とはいえまったく客観的に、―規定する根拠なのである。すると道徳的法則は、かかる行為の主観的な規定根拠、すなわち[行為の]動機でもある。道徳的法則は、[行為的]主観の感性に影響を与えて、意志に及ぼす法則の影響力を促進するような感情を生ぜしめるからである。しかしそう言ったからとて、主観のうちに、道徳性と調子を合わせているような感情があって、それが道徳性に"先立つ"のではない。およそ感情はすべて感性的であるから、そのようなことは不可能である。道徳的心意を生ぜしめる動機は、一切の感性的条件にかかわりのないものでなければならない。我々の一切の傾向性の根底に存する感性的感情は、確かに我々が尊敬と名づける条件をなすものではあるが、しかし尊敬の感情を規定する原因は、純粋実践理性にある、それだからこの感情は、この起源から言えば、感性的なものではなくて、"実践的に生ぜしめられたもの"と言わねばならない。つまり道徳的法則の表象は、自愛からその影響力を奪い、独りよがりから迷妄を除き、純粋実践理性に対する障害を減殺するのである。そこで実践理性の与える客観的"法則"が感性の衝動に優先するという観念が生じ、従ってまたこの法則のいわば重みが(感性によって触発せられた意志に関して)これに対抗する[傾向性の]重みを排除することによって、相対的に理性の判断において生じるのである。それだから法則に対する尊敬が道徳性を発生せしめる動機ではなくて、この感情が取りも直さず主観的に動機と見なされる道徳性そのものなのである。要するに純粋実践理性は、自愛と対抗して、自愛の提起する一切の要求を拒否することによって、今は影響力を独占している道徳的法則に威信を与えるのである。ところでこの場合に注意せねばならないことが二件ある、すなわち―第一に、尊敬が理性的存在者の感情に作用を及ぼし、従ってまたこれらの存在者の感性に作用を及ぼすとすれば、尊敬は理性的存在者におけるかかる感性を前提し、従ってまた道徳的法則が彼等に尊敬の感情を必然的に生ぜしめるために、彼等の有限性を前提している、ということである。また第二は、"法則"に対するこの尊敬は、最高存在者においてはもとより、およそ感性にまったく無縁な存在者においては、従ってまた感性が実践理性の障碍になり得ないような存在者においては有り得ない、ということである。
それだからこの感情(道徳的感情と呼ばれている)は、まったく理性によって生ぜしめられたものである。かかる感情は、行為の判定にも役立たないし、まして客観的な道徳的法則そのものの根拠を確立するものでもなく、ただ行為者が道徳的法則を自分の格律たらしめるための動機として役立つだけである。それにしても感性的感情とはとうてい比較され得ないこの奇妙な感情に、どのような名称を付したらいっそう適切に表現できるのだろうか。実際、この感情は極めて特異な種類のものであり、まったく理性の命のみを、それも純粋実践理性の命のみを奉ずるもののように思われるのである。』
(『実践理性批判/カント』P154~160より引用)
※「ア・プリオリな認識」とは「経験にかかわりのない認識」。

佐藤篤代

概念:佐藤篤代/西暦2016年後半(19)
【A Course in Miracles】
人間的理性欠落の特別性領域
西暦2016年8月29日:月曜日



西暦2016年段階概念:佐藤篤代
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12115170669.html
西暦2016年前半
(20)【A Course in Miracles】絶対強者勝利=楽園の特別性
(21)【A Course in Miracles】弱者を踏み躙る楽園の特別性
(22)【A Course in Miracles】罪の悪循環の輪に陥る特別性
(23)【A Course in Miracles】異常者を作る特別性の末路
(24)【A Course in Miracles】特別性の中に真の救いはない
(25)【A Course in Miracles】特権で不都合を排する特別性
(26)【A Course in Miracles】不条理は楽園の特別性が作る
(27)【A Course in Miracles】不公平な楽園の特別性の歪み
(28)【A Course in Miracles】不当な発言力と特権の特別性
(29)【A Course in Miracles】矛盾を正当化させる特別性
(30)【A Course in Miracles】特別性で矛盾を覆い隠す結果
(31)【A Course in Miracles】因果の結果を受け取る特別性
(32)【A Course in Miracles】肯定法の巧妙な悪用の特別性
(33)【A Course in Miracles】信用破綻へと自滅する特別性
(34)【A Course in Miracles】低レベルへ堕とされた特別性
(35)【A Course in Miracles】特別性で操った結果の末路
(36)【A Course in Miracles】ハリボテの特別性の限界
(37)【A Course in Miracles】自分ルールの正当化の特別性
(38)【A Course in Miracles】自己中心的特別性の崩壊
(39)【A Course in Miracles】天使の姿で欺く特別性の正体
(40)【A Course in Miracles】不正の合法の正当化の特別性
(41)【A Course in Miracles】陥れれば自ら堕ちる特別性
(42)【A Course in Miracles】堕ちた偶像を死守する特別性
(43)【A Course in Miracles】空中楼閣の特別性の末路
(44)【A Course in Miracles】倫理が欠如した特別性の世界
(45)【A Course in Miracles】世界構造が違う特別性の結末

西暦2016年後半
(1)【A Course in Miracles】特別性の無法領域と外的法則
(2)【A Course in Miracles】排他的思考の特別性の大誤算
(3)【A Course in Miracles】蒔いた種を刈り取る特別性
(4)【A Course in Miracles】黒を白と言わせる特別性
(5)【A Course in Miracles】獣レベルの領域の特別性
(6)【A Course in Miracles】他を犠牲にして利する特別性
(7)【A Course in Miracles】無法地帯の特別性の異常影響
(8)【A Course in Miracles】原始的概念の領域の特別性
(9)【A Course in Miracles】無秩序・無法地帯の特別性
(10)【A Course in Miracles】他者否定・自己肯定の特別性
(11)【A Course in Miracles】倫理欠如の特別性の異常影響
(12)【A Course in Miracles】冠に縛られる特別性のヒズミ
(13)【A Course in Miracles】詭弁的悪政の特別性
(14)【A Course in Miracles】人間性欠落の特別性の領域
(15)【A Course in Miracles】仕掛けの報いを受取る特別性
(16)【A Course in Miracles】外観で欺き歪める特別性
(17)【A Course in Miracles】我欲を押し通す特別性の世界
(18)【A Course in Miracles】情報の歪みの正当化の特別性


西暦2015年段階概念:佐藤篤代
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12111785865.html

西暦2016年(年号:平成28年)
申(さる)年現在

【佐藤篤代について】

[本物:佐藤篤代がブログで言う核]
【A・Course・in・Miracles】の核心
・知覚ある世界全てはエゴが作った幻想
・他は無い・他は幻想
・エゴが世界に留める為の最大の欺きの手段は特別性だ。
故にエゴの欺きから脱するには特別性を棄てなくてはならない。
・知覚もエゴが作った。
エゴの作った世界の終わりとは知覚の終わりだ。

矛盾がない概念を採用し、その方向性を目指す。こうして矛盾と歪みをそぎおとしていけば、いずれエゴの欺き(幻想)の完全な終わりへ向かえると本物:佐藤篤代は考えるからだ。

『世界は幻想』とは【人間レベル】で言うと仏教的意味合いに近い。


[佐藤篤代]

佐藤篤代はあらゆる全ての思想的布教や教えの組織も含め、A Course in Miraclesに関するあらゆる機関、組織、同人誌を含めた全ての出版、講演、workshop、慈善事業、ボランティア、あらゆる公的活動には一切関わっていないし、永久に関わらない。その他相談的なもの、カウンセリング、ヒーリング等同等の行為にも一切関わっていない。また、イエス キリスト的な偉人系、隠れ偉人や仙人系でもない。

本物は将来性のないニート
(西暦2016年)
佐藤篤代は西暦2016年1月17日(日曜日)で40才
栃木県宇都宮市のド田舎生れずっと在住
日本人(血縁すべて日本人)
生まれてからずっと中肉中背
普通の容姿
西暦2009年から無職。それ以前は全部バイトかパート
生涯未婚で子無し


佐藤篤代の現段階の概念
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12102633510.html

A Course in Miracles;世界は幻想という意味
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11740124334.html

西暦2016年版プロフィール
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12111502426.html

43才になったらやらない一覧
http://simplog.jp/comment/11771884/23

ニュースリンク(西暦2014年4月~)
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12102638099.html

【但し書き】必ずお読み下さい
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-12101838092.html













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